Carpe Diem

Think good thought.

アメリカに行って得たものとは

 

 幾度かこのタイトルに挑んできた気がする。ちなみに昨日見た夢は非常におかしなものだった。日本人と自分と知らない外国人でアメリカにいた。多分量から出かけて散歩していた。日曜日の午後。太陽は低くなっていて白いレンガの壁が明るすぎるくらいに真っ白になっていた。それからどんどん日が暮れていく。車には乗っていなかった。歩いていた。東の方へ。それから夜になって四人ぐらいでターゲットのような店に入った。それはコストコの隣に、通りを一本挟んであったような気がする。そんなことあり得るのだろうか。中でチョコレートを買って食べたりした。カートがいっぱいになってしまうくらい買い物をみんなでした。とっても楽しかった。変な夢を見たもんだと、その夢が覚めた瞬間に起きて笑った。そしてまた寝た。自分の夢について文章を書くというのはいつでも不思議なものだ。留学したのもひょんなきっかけだった。それまで留学という言葉の意味することもよく知らなかったし就職と同じくらい謎だった。アルバイトはしたことがあったからまだビジネスのことの方がわかったのかもしれない。けどよく考えたら留学は大学間で行うものだったので大学生活についてはよく知っていたはずだ。少なくとも日本のそれについては。アメリカに行ったわけだけど多くのものを得て帰ってきた。そのものが大きすぎてうまく書けないのだと思う。死ぬまでこのタイトルで文章を書いても毎回書くことは違うだろう。常に中心から遠ざかっていくような気がする。このことについて書きたくて、話したくてしょうがないのに書けない。変な物語を周りにしっかりとくっつけては中心までの距離をまた作ってしまう。本当はその中心の最も大切な部分を自分の中だけで閉じ込めておきたいのかもしれない。多分そうではないが。けど、このタイトルでアメリカでの自分の体験を書き続けることはとっても意味があることだと思う。大きすぎてできないことのような気もするが、最後にはとっても素敵なものが出来上がるだろうという予測を今できたからだ。例えば、このタイトルで文章を毎年、毎月書いてみる。そうすれば何かしら見えてくるはずだ。いかにして中心に近づこうとしているかは少なくともわかる。一つずつの些細なストーリーが中心に近いものを作り出すことだってある。いつか巨大なアンソロジーを作れば、何か立派なものができる。それぞれの短い文章の最も優れた一部を切り取って編集すればそこには信じられないくらい素敵なものが出来上がっているかも。これが無駄だとは思わないが、ある偉大なものができるために無駄と思われる程の物やお金が消費されていることはよくあることで、そこに向き合ってきたからこそできるものは確実にあるわけだ。だから、こうやって序章というか本題に入らない文章も時には意味がある。アメリカにいる時よりも帰ってきた今の方が英語でたくさん夢を見る。やっぱり今でも明らかな一つのことは、現地での自分の経験はあまりにも重大だったということ。人間は、本当に大切なことやものすごいことに直面してしまうとそれを語るすべを失ってしまうらしい。それには強く同意する。激しい恋愛でもなんでもいいけど、自分の力を全て使い切ってしまうような経験の後にそれをうまく語ることは非常に困難だ。冷静さだってないしいつだっけ記憶は美化され続ける。アメリカにいた時に書いていた文章をこの前見返したのだが本当に頑張っていた。すごい。よくあれほど毎日たくさんのことを考えられたものだと思う。毎日気持ちを書いて考えを書き出して自分を肯定しなければ決してやっていくことができなかったのであろう。そういう時期はある。新しいことに挑戦したり違う環境に挑んでいくとき。その時は緊張しているし余計に力が入っている。疲れるし何が正しいか考えている暇もない。自分が正しい、少なくとも間違っていないことを期待するし信じている。そのような期間に学んでいることは多いのだと思う。その後何年間か、その事象からいろんな真理や教訓を引き出すことができると思う。だから、いろいろ大変かもしれないけどその瞬間を楽しんだら良いと思うし後になってものすごいお釣りが来るよと誰かがそっと教えてあげたら良いのかもしれないと今思った。もちろん言われた方としては、言われたって聞く耳を持たないし納得できないはずだが。

 この前机に向かっていて、そろそろアメリカで学んだことについてそろそろ正常な判断を下せる、冷静にまとまった文章を書くことができると思った。だからタイトルだけをメモして今こうやって書き出したのだが、これ前書いたどんな文章よりも中心から遠い結果になってしまった。それはそれで楽しい。一体いつになったら書くことができるのだろうが。自分では何を得たかがよく赤っている。時間が経つごとにそれは明らかになってきている。けど、明らかになることが形になることとイコールではないということもここになってわかってきた。より感覚的かもしれないし総体的かもしれない。

 これは確かアメリカにいるときに気づいたことだったと思う。「誰とも共有できないほどの(刺激的な、素晴らしい、悲しいあるいは残酷な)経験した人の物語が世界で最も多くの人の共感を得る」ということを。これは多分合っていると思う。しかしそれまでにそれを伝える手段が確立しなければいけない。そのことをその時は考えなかった。それはメディアのようなもの、メディアと呼ばれるものかもしれない。その経験をどうにかして伝えなければいけない。伝えられなければ感動ということも共感も生まれることは決してない。本人でも本人でなくとも誰かがそこを繋ぐ必要がある。他人からしたらその手段はなんでもいいのだ。作家でもテレビ局でも映画監督でも。本人の言葉ではないほうがいいのかもしれない。わかりやすい具体例を挙げる。オリンピックの金メダル。世界で一人しか取ることはできない。なぜその話に人々は熱中するのだろうか。その感覚は確実に、金メダルを取った人にしかわからない。つまりとは誰とも共有できない感覚に見えるのだ。けど、その話がみんな大好きだ。尊敬している選手や自分の国の選手がそれを取るとみんなが注目し、喜びを共有する。生き方を知ろうとする人も出てくるし本番の作戦やストーリーを聞きたがる人がどんどん出てくる。けど、冷静に考えてその人に見た世界や手にしたもの、感情というものは誰とも共有できないものだ。そんなものが、そんな話が世界で最も大きい共感を生み出すのは面白いことだ。共感ではない、感動の方がで適切かもしれない。共有しうるといってもいいが、そのものを共有しているわけではない、正確には。けど、仕組みとしてはそうなる。ホテルルワンダという映画も口コミで広がったわけだが、あの状況の本当の話を想像することすらできない人たちが広めたのである。

 圧倒されたことを語るのは難しいしそれを専門にして生計を立てている人もいる。自分としては、このアメリカでの経験は非常に重要なものであったからうまく言葉にして自分で書きたいと思っている。その日が来るまでは手を動かし続け、頭でも考え続けよう。そんなことをしていたらまたいつかアメリカにたどり着いて文章を書いているかもしれない。それは非常に楽しみなことだ。これも、この文章も、アメリカで得たものの一つ。