Carpe Diem

Think good thought.

ありそうであまりないこと

 

 ありそうなんだけど、実際にはあまりにないこと。人に話してみたくなること。本当の戦争の話をしようという本があったと思う。その本から学んだことは、何が本当の話かは実際わからないということ。誰にでもそういうことはあり得たのだ。それはあったとも言える。起こったとも言えるし実際には起こってはいなかったのかもしれない。偽りではないと思う。形はどうであれr、時が経って記憶が曖昧になったにせよ、その何かはそこに存在したわけだから文章にも話にもなるのだ。起こっていなかったとしてもとにかく、記憶や文章、物語として存在してしまうのである。

 事実は小説よりも奇なりという言葉がよく使われている。本当にそうだと思うけど世の中奇妙なことが多すぎうんじゃないかと思うこともある。小説のほうがまだ信じられると思うこともあるし実話だからこそ説得力があることも。とにかく、それが起こったかどうかと、その話を人にして信じさせることに成功するかに関わりというか繋がりは見出しにくい。何を信じるかのような話になってしまう。人が求めているものはどんなものでもいいから単純に物語なのかもしれない。これは絶対に自分しか体験したことがない。そう確信していても誰かしら同じような体験をしているのがこの世の中。楽しいような気もするし時に悲しくなる。けど、それぞれの人間に歴史があり個性が存在するように、ほとんどの出来事はその人にしか起こっていない。一つの出来事が多くの人に影響を与えたとしてもそれぞれの受け取り方は完全に異なるので異なったストーリーがそこでは生み出される。見え方は絶対に人間によって異なる。そしてそれをどのように表すかも絶対に異なる。文章が得意な人、話すのが得意な人。同じ人が同じ話を書くのと話すのでは全く違ったものになってしまうかもしれない。そういう場合にはもはやそれを同じ話と呼んでいいかわからなくなってしまうが。

 ありそうでなさそうなことはすぐに誰でも思いつくはずだ。それが作りバナsだったとしても。けど、実話でいい。自分の物語の中にそういう種類のものはいくつかあるはずだ。変な体験をしたなあと思うこと。もう同じ体験は一生することがないだろうと予測できるもの。そういうことについて少し話をしたらいい。そしたらきっと面白くなるだろうし場の空気は和やかになるだろう(そうなると良い)。そういう話を幾つか繋げていけば面白い小説だって書けそうだ。話を作ったり話す、書くのが上手い人だけが作家になるのではない。最も寡黙で人の話を辛抱強く、あるいは楽しみながら聞き続けた人にしか書けない作品だってこの世にはたくさん存在しているのだ。

 それでは幾つかのありそうでなさそうな話。

 飛行機で隣の人と7時間話し続ける。初めて一人で海外に行った時。人見知りというか普段知らない人と話すことはそれほどない。きっかけがなかったりそのような場所でない限りは。けどその時は違った。最初にどのような言葉を投げかけたか、覚えていない。後で確認してみるもののお互いの記憶は全く異なっていた。これまで何をしてきたか、これから何をしてくかについて語った。結果的にそのあとの僕の人生は大きく変わってしまったわけだが。今思えば、あの時が人生を変えるのに十分なきっかけだったと思う。あのとき、あれだけ話を続けられた自分がすごい。それだけのものを十分に蓄えていたのだろう。普段から読んでいたもの、聞いた話。自分がこれまでに訪れたところ、興味関心を持って常に最新の情報を得ている事柄。持てるものはほとんど出し切った。誰に頼まれるでもなく、話している相手にも迷惑だったのかもしれないが果てしなく喋り続けていた。しかもあれは確か、ポートランド国際空港への飛行機だったと思うので9時間ほどのフライト。しっかり話せたなあというか話し続けてしまった。今でもその人の存在に心から感謝している。

 一週間以上髭を剃らなかった。不思議なことだけど、それは日本で普通に暮らしていれば異常なことだ。やっぱりふ清潔と捉える人もいる。モラルというかルールのような気もする。自分の生活だけなら迷惑をかけないかもしれないが、例えばアルバイトをしていたらそこのルールを守らなければならない。普段から人と接するのに髭が生えていたらいけないのかもしれない。アメリカに移って一ヶ月ぐらいして。いろんなことを乗り越えようと必死にもがいていた時期だった。自分の辛さを思い出して哀れんでいるのではなくてとにかくあの時は必死だった。笑えるくらいに。別に大したことをしているわけじゃない。毎日大学に行って勉強するだけだ。誰に頼まれたわけでもないしむしろ、やらなくたって良かった。けど、勝手な使命感から真剣に取り組んでいた。あの頃はプライドのようなものしかなかったのかもしれない。課題を最低限終わらせること、予習をすること。それだけなのに毎日があっという間だった。それに食らいついていた。朝起きる。しっかり鏡の前に立ち顔を洗う。着替える。授業に出る。図書館に行く。運動はその頃する余裕がなかった。シャワーを浴びて寝る。その繰り返し。で、気づいたら二週間ぐらい経っていた。そして人と会った時におそらく髭を剃ってないことに気づかされた。本当にびっくりした。よく言えば、髭をそるのも忘れて勉強したり生活していた。鏡の前に毎日立っていたにもかかわらず。あれは今考えても相当変だ。

 ある時、好きだった人と別れるようになった。その時は悲しかたけど、混乱が大きかった。その前に英語についての話。いろいろ学んだり使っていくといろんなものが身についてくるのはよくあることで、ある時から夢の中で英語を喋っていたり寝言が英語だったりする。不思議なものだ。起きているときは意識的に英語を使っているのに夢の中では無意識に英語でしゃべっていたので非常に謎めいている。それと同じような感じで、その彼女と別れた時いろいろと伝えたいことがあった。そして変な話なのだが、英語の方がその気持ちを伝えやすいのだ。直接話すにしろ手紙を書くにしろ英語の表現ばかりが浮かんでくる。映画の見過ぎかとも思ったし音楽の聞きすぎかもしれないがよくそういう表現をたくさん覚えているものだとも感心した。Can anybody find me somebody to love.

 親友が外国人。そしてなぜかわからないけどとても大切な、困難な時期にこそ現れてくる。そしてその人たちの国籍はなぜか同じ。国籍なんてどうでもいい要素しかないかもしれないが、何かを感じる。親友が外国籍の人ってあまりいないようでいる気がする。

 同じように日本に住んでいながら身内を除いてその月にあった人が全員外国人。これも極めて特殊だと思う。単純に確率の話として。

 要するにつながりの話。いろんなつながりを欠いた美しい物語がこの世には溢れている。留学した大学のことでいくつもの話があるがあまりに特殊で個人すぎるので書かない。誰にもわからないけど自分でつながりを見つけて感動したことなんて忘れるほどあるし、そのような話なら50個くらいある。まだほとんど誰にも話していないし、これからも話さないだろうけど少しずつ出していくつもりである。けど、ベンジャミンバトンの話はフィッツジェラルドの短編が原作だということをあなたは知っていましたか?そこにつながりを見つけて喜ぶ人もこの世の中にはいるわけで。いつか優れた聞き手に文章にしてもらうのが良いかもしれない。