Carpe Diem

Think good thought.

人それぞれ

 

 やってみないとわからない。これが難しいところではあるのだが、同時に面白いところでもある。ほとんどのことは後付け。他人の評価も自分の評価も変えようと思っても変えられなかったりする。人生は終わってから評価されるのかもしれないが、その時にはもう自分は死んでいる。だから、言いたいことがあったら自分で言っておこう。それは誰にも変えられないし、他人が他人に向けて言った言葉は決して自分のものとは関わりがない。もし、あなたが語る必要があると思ったら、そう思えるような物事を見つけたのなら書くことを今、強くお薦めしておこう。

 皆人それぞれだから。努力しようがしまいが勝手に違いは現れてくる。それでも同じ動物だからどこかに通っているし基本的に似ているし同じだと言われたらそこまでかもしれない。けど、そんなことは誰でも分かっている(はずだ)。当たり前の文章を書いてそれで初めて理解したり納得したりする人もいるし、そのようなことを文章にする手間を無駄だと捉えたり書いている人は頭が悪いと思って以降の文章を読まない人もいる。人それぞれなのだ。

 自分が心地よいと思える場所を是非とも見つけてください。他人に遠慮する必要は特にない。それをするだけの価値があると思ったその瞬間からどんどん突き進んでください。応援します。やりたいことが見つかるってことはやはり、とっても幸せなことの一つだと思う。自分としては書くことに対してなんらかの意味を見出している。おそらく。けど、こうして文章にしてみるまでそう思ったことは正直に一度もなかった。今書いてみて初めて知ったことだ。正確に言うことができるとしたら、書くことが何か意味をするだろうと信じているし、実際にそれを体験している。そして、そう信じるに値するし、書き続けることに意味や価値があるととらえている。だからこうして今も書いているのだ。いつ、ピークが来るかわからない。今日が終わって明日が来る。いつまで生きられるなんてわからないというがそれは正しい。不確実なことが多いこの世の中でも明らかなことの一つかもしれない。もしかしたらこの文章を書いているうちに何かが起こって書き終えることはないかもしれない。そしてこの文章は、誰の目にも止まらない。これが最後の文章になるだろう。といっても、その文章は真実を表していないかもしれない。すでに何百本もの文章が出来上がっていて公開されるのを待っているかもしれないなんていう不思議なことも考えて今文章を書いている。

 自分で物事を考える余裕と力がつき始めた頃から文章を書いている。その頃から書き始めたと言える。最初はただの記録のようなものだった。記録にも価値はある。少なくとも自分にとってはだ。昔はよくそれを見返していた。多くのことに迷っていた。今と比べて悩みは果てしないほどあった。毎日悩んでいた。そんなに悩むことがあるのかと昔の自分に聞いてみたいものだが彼もまた頑張っていたのだろう。その分人にも相談していたし文章にも頼っていたのだろう。そこから、書き方が少し変わっていく。記録よりも感想に少し近づいていく。出来事は簡単に記録され、そこで何を感じたかを少し長めに書いていく。それからどんどん思考を描くようになった。最初が二年、その変化から二年。そんな調子で書き続けた。相当の量を書いていた。毎日果てしなく悩みや新しい(と思われる)考えが自分の中に渦巻いていたのだろう。それをどうしても言葉にしたかったしその行為は自分という人間を作っていく上で重要な役割を果たした(と思うしそうとらえている)。それからまた新たな変化があった。テーマを考え、それについて書くようになった。より意識的に文章を、思考をまとめるように挑戦した。しかしそれはうまく続かず、また元のエッセイのようなものに戻っていく。しかし、一つ明確な変化はあった。今は文字数を一つのベースにしている。最初は千文字。それでも少し長いと思った。千文字出かけることは今となったら相当限られていると感じるが最初は長いなあと感じたものだった。毎日続けるのも簡単でなかったというか楽ではなかった。それから二千文字へ。単純に二倍になったという感じでもなかった。今では3,000字だ。その場で考えつつ、書きつつ止まることはないのだがどうしても30分程かかる。毎日それだけの時間がかかる。同じく全く苦ではないのだが楽ではない。一時的に書き続けることが止まったこともあった。今後も書き方は変化していくだろう。どうやら自分が思っていることを自由なスタイルで書いていくのが最も相応しいようだ。書くネタというか経験はこれまで十分にあるし、書かれることを待っている考えが毎日浮かんでは消えている。

 千字でも、二千字でも、三千字でもどれが自分にとって最も相応しいのかはまだわからない。今後もわからないかもしれないが一種の訓練というか実験的な行いとして今が存在している。また今後振り返ってみれば全く違う感想を述べているかもしれないしそれは恐れていない。どれが自分にとってぴったりだろうか。

 仕事でもなんでも。現場に出ることで最も能力を発揮できる人。自分の頭はそれほど使わない。目の前の単純作業を果てしなく繰り返していくことに自信がある。頭を使う人。実際にないものでもしっかりと自分でコントロールできる。経営向きの人。いろんな向き吹き気があってこればっかりは自分で試してみないとわからない。本当に人それぞれだから。確かにその通りだと思う。この前誰かが言っていたけどもちろん経営者しかいなかったら世の中はしっかり回っていない。誰かが考えて、それを形にしてしっかり消費者に届ける必要があるわけだ。そこには区別がない方がいい業界や文化もあるだろうし、完全に分離されていることで最大の価値を生み出すことだってあるだろう。

 実験をできるということ、その状態は非常に恵まれたものであると思う。大学の入学式で学長が言った。Life is …。人生は実験だと。英語で。もちろんそこはアメリカだから。その時自分はスタジアムの中の一人だった。何千人か学生がいたのだろうか。その中の一人だった。自分以外自分のことを考えている人は誰もいなかったと断言できる。けど、人生ってほとんどの時間そんなものかもしれない。自分のことをわざわざ考えてくれる他人なんてほとんどいないのかも。その時の学長の言葉に心は少し動いた。少しじゃなかったかもしれない。アメリカに来たばかりで色々と緊張していた。期待よりも緊張が大きかった。そんな中で、そうだな、実験だよな何て思った。ちょっとほっとしたわけだ。同じ言葉を聞いている人の中でもそのように捉えたのは自分一人だったのかもしれない。人それぞれだから。

 何かを極めるには10,000時間が必要だと言ったような言葉もある。Queenのアルバムを全部聴き終えてなにかインスピレーションを得るかもしれないしThe Beatlesのアルバム二枚だけで人生で大切なものは何かを悟る人もいるかもしれない。広い青空の下で散歩する音で同じものを得る人だっているわけだから人それぞれ。みんな同じ環境で生きていると言われれば否定はできないかもしれない。けど、それぞれが見ている景色や考えは絶対と言っていいほど違う。違いも同じことも、同じくらい大切にしよう。実験できるだけ幸せだし、みんな人それぞれなのだから気楽にいこう。