Carpe Diem

Think good thought.

日本映画のダンスパーティ

 

 ある宇宙飛行士の話。彼は景色を見るのが大好きだった。子どもの頃からその広い空に憧れた。なぜそんなに空は青いのか。青にもいくつの種類があるのはなぜか。なぜ、季節によって見える景色が変わるのか。そして季節が無くなってしまったらどうなるだろうか。彼は地球に対して疑問を持ち興味を抱いた。そして宇宙に対してその関心はどんどん移行していった。宇宙から地球を見たらどうだろう。彼は実際宇宙飛行士になった。そして宇宙へと旅立った。時代が進み、テクノロジーは進化した。地球は青かった。言葉でこれまでは多くのことが伝えられてきたが、今では写真を送ることも出来るし動画を人々とも容易に共有することが出来る。そして宇宙にいる人と同じ時間で話すことも出来るようになった。彼は子どもの頃から景色が大好きだった。これは大切なことだと思う。単純に好き嫌いの話しとも言えるが、それよりは少し深い傾向のようなものだと思う。宇宙に行って突然景色に目覚める落ち浮ことは実際それほどないと思う。もちろん宇宙からの眺めは壮大であるだろうし、それ自体を見たことがある人の存在が少ないから面白いかもしれないが、行ったすべての人の感覚を変えてしまう程の力はそこにはないと思う。どちらかと言うといろんな景色を見るのが元本好きだった人、地球にいる間もいろんな自然、人工物に興味関心を持って鑑賞の対象にしてきた人がその継続として改めてと言うか、独自かもしれないが宇宙からの景色にはまっていくのではないかと思う。宇宙からはオーロラを見ることが出来る。地球ではそれほど簡単に見られるものではないという当たり前のイメージがある。しかし宇宙なら、それほどひどくない環境で何度もそれを見ることが出来る。このことは一見凄いと思えることだが、すべての人に取ってそうであるということではない。やはり、景色に興味がある人がそこに関心を示し続けるのだ。そして、その人たちにそれは凄いものである。宇宙から見たオーロラ。しかしながら、宇宙以前にオーロラにも興味がない人たちにとってそれはニュースにするにも値しないこと。彼の場合はそのオーロラの景色を楽しみ続けた。そして地球の人々とその驚きや喜びを共有し続けた。彼は、そしてそれを見ている人は毎日楽しくてたまらなかった。

 タイトルは日本映画とダンスパーティ。このことについては昔から書きたかった。そのくらい思いがこみ上げてきたから。映画をこれまで少なくない数見てきたが毎回思うことがある。違和感とは何か、ともし問われて答える機会があったとすれば、自分の答えはこうなる。「日本映画におけるダンスパーティ」。そもそも映画の中でダンスやパーティがでてくる日本映画はそれほどないと思う。そもそもやはり、ダンスというのは何かを説明する時点でそのダンスというもの自体が欧米によりすぎている気がする。ここでは欧米の文化のダンスのことであって、いわゆる少数民族等のエキゾチックなダンスについては触れていない、いわばオールドでトラディショナルなダンスについて、社交のダンスについての話。洋画を見ていたら嫌という程、あるいはごく当たり前にでてくるダンスシーンの話である。折に触れて踊るシーンというか機会がある。それがないと映画が、話が進まないのかと思うくらいに。面白いような気もするし時には厭きてしまう気もするが。昔、ある種のパフォーマンスが理解できなかった。ある有名なアニメーション作品のように、人々が途中で行きなり歌いだすシーンがある。あれは幼い頃、意味が分からなかった。なぜ歌いだす、そしていきなり踊りだすシーンがあるのかと。ミュージカルもそういうものかもしれないが、色々見ていくうちにそうやって表現するものだからと非常に納得できたしその効用というか意義もわかってきた。それに比べれば映画の中にダンスパーティのシーンがあるのは納得できると言うかごく自然なように思えてくる。それは定番なのだ。インド映画でダンスや歌が盛り上がる場所であるように洋画においてダンスのシーンがあるのはごく自然である場合には重要なシーンなのだ。つまり、非常にナチュラルであるということ。

 もし、日本映画で行きなりパーティのシーンがでてきたらどうだろう。細かい設定はなくて申し訳ないがやはりそこに違和感を感じられずにはいられないと思う。おかしい、言い切りたくなる。どんなにうまく踊っていても。思い出のマーニーでダンスシーンがあるが、あれはマーニーの家だからナチュラルな訳であって。日本の盆踊りとは少し違うし、盆踊りなら日本映画でもしっかり来る訳で。いろんな種類の違和感がある。この文章の前半がタイトルと関係ないように感じられるのも違和感の一種。自然であるか、ナチュラルであるかは様々な判断において非常に重要な要素であると思う。日本映画にダンスパーティがでてきた時、どうもうまく物事を考えられなくなってしまう。