Carpe Diem

Think good thought.

可能性を

 

 何事にも可能性はある。それはあなたに起こったことかもしれないが私に儲かったかもしれないことだったのだ。なんていう言葉を続けていると人から信用されなくなりそうだ。興味を失われそうだし、それはそうだけどそれじゃどこにも辿り着けないとも言われそう。もちろん、なんだって世の中あり得るというのはわかる。けど、そうだとは心の底から思えない。人のことだと信じられたり無視できることがある。それと同じように、自分のことだけど信じられなかったりこだわってしまうこともある。ここのバランスはどうコントロールしていけばよいものなのか。そう簡単にはできないし決してできないことの一つかもしれない。

 言いたいことは、あらゆる可能性を持つこと、認識することは大切だということ。少なくともこれまで自分にとってそうだったしこれからもそうだということ。なぜいろんなことに対して可能性があるのに気付けないのだろうか、気付いているのに塞いでしまうのだろうか。

 いろんな可能性がある。あなたは才能もあるし夢もある。そう親に言われ続ける子供は不幸だとよく言われる。真剣勝負もせずに自分の才能が試されることもなく一生を終えていく。しっかりとした機会を得ることができなかった。まだ本気を出していなかった。親も自分の子供だからという不思議な理由で応援したり褒めたりする。そんな幻想に浸るよりはさっさと現実で勝負しろと。それをさせないことはもはや罪であり子供の可能性を潰す最も手っ取り早い手段だとも誰かが言っていた。

 もっと幅広く構えていいのではないか。気楽に過ごして柔軟に生きていればいいと思う。自分の気持ちとして。他人からどう評価されようが特に気にしないで。他人の考えを決して自分の考えないほうがいい。無意識にそう捉えてしまう人は少なくないし、それでこそ安心したり納得する人がいることもわかってはいるが。見えている道が細すぎたり限られていると困難が生じると思う。本当に稀なケースを除いて。プロフェッショナル言われる人の数は限られている。世界で結果を残す人は十代のうちにほとんど結果を出している。三十代になって何かを極めて世界で活躍しようと思ってうまくいくものもあれば、決してそうはならないものもある。そのような特殊な人間ではないのに、頑なに自分の行く道を閉ざしてしまうことの意味はどこにあるのだろうか。自分で選択をしなくて済むし安全だし安心できるのかもしれない。けどそれは、本当に変化のないことなのだと理解していないはずだ。それによってどれだけの可能性を失っているかを自分で把握していたほうがいい。ある時何かを得る。それに満足する、おしまい。でもいいのだけど。自分でもいつも思っていること。「何かを得る時には同時に何を失うかをはっきりと考えていたい」。そして何かを失っている時には何を得ているのかということも意識している。

 想像力の欠如とも近い。本当に限られた世界しか見ていない人がいる。その人たちはまずそのようなことに気づいていない。自分が見ている世界に限りがあることにすら疑問を持ち得ないのだ。よく言うように、親の言葉に従って生きていく人は実際にどれほどの割合で存在するのだろうか。親の言葉だけではない。いわゆる世間の常識。こうしておけば間違いない。あれには決して手を出してはいけない。あれは他の人のやることだからあなたは目の前のそれをやりなさい。自分の考えでもなんでもないことを信じ切って生きている人はどれほどいるのだろう。いい高校に行っていい大学に行っていい企業に行く。それしか考えられなかったとしたらそれはいい高校でいい大学でいい企業だったのか。そしてそれは、誰にとって良かったのだろうか。

 自分にとって何が必要かはどの段階でわかってくるのだろう。それは興味関心でもいいし、誰かがもたらしてくれたものでもいい。どれだけ心や体を環境に対してオープンに開けているかが重要だ。閉じた環境だけで育ってきた自分がその環境の中で何かを乗り越えていくことは不可能だ。そこは閉ざされた環境で同じことしか繰り返されない。予想できない惨事に出会うことはないだろうがそれと同じように何か新しい機械も決して現れることもない。何も得ることもできないし失うこともない。それのどこが良いことなのか。そしてたまたま一回目に出会ったチャンスで成功したり失敗したりする。そのまま引きこもってしまう人もいればもう帰ってこない人もいる。一回のきっかけに永遠にしがみついて生きていく人もいればそんなこだわりは一切持たずに何百回も新しいことに突き進んでくる人も出てくる。少なくとも1、2回じゃいろんなことはわかってこない。100回ほど新たなことをしてきた人がくれるアドバイスだってそれはその人の経験であってどこまで自分に当てはまるかは決してわからない。やってみるまでは。

 別に特別な能力を持っていようがいまいが自分の頭で考えること。閉ざしているより開いていくほうが生きていく上では役立つ。その自由も環境も整っていることは明らかだ。なぜわざわざつまらない選択をしなければいけないのか。誰のために何をしているのか考えたことはあるのだろうか。自分の頭で。いつか誰かが準備してくれるんじゃないかと思っているのかもしれない。そうだったらいいかもしれないですねと答えることも可能だが、それで本当に良いのだろうか。自分で考えたりイメージしたり実行することは以外と簡単であると思う。そこからうまくいくか、思い通りにいくかはまた別の話になるわけだが。自分のアイデアなんて生まれてから死ぬまで決して邪魔されるわけはない。将来がわからないというけど、わかるわけはない。過去のことだっていくら自分の記憶といえどもあやふやなものばかりだろう。なぜ過去にだけは自信を持てるのだろうか。どんなに考えたって過去のことは変えられない。そこから学ぶことはもちろんできるだろうが。

 柔軟に考えること。変わること自体に価値があると誰かが言っていた。良くなろうと悪くなろうと変化がないことには何も始まらない。確かにそうかもしれない。そして、その変化があった時に何かを学ぶこと。柔軟に。感じることがあるはずだ。自分が何をしたいかなんてわからないかもしれない。そんなことはないはずだが。やりたくないことだってたくさんあるだろうが。やりたいことだけやっていても本当に良いと思う。明日になったらいきなりプロゴルファーになれるかなあという空想ではなくて。いきなり明日からあるお店の経営を任せられたらどうしようとか、その程度のことは確実に考えられるだろう。その程度のことなら大いにあり得ることだ。けど、雇われる側しかやったことがない、自分には恐らく無理だからやりたくありません、絶対無理です、ありえません。そんなことは言っていないで。確かにできないことは人それぞれあるだろう。けど、どこまでならできそうなこととして考えられるだろうか。パン屋さんかもしれないし通訳かもしれない。それらを意識して過ごしていればチャンスはどこからでも舞い込んでくる。好きなものも一つはあるだろう。自分の生き方や考えを過剰に制限していないか。可能性を小さくできるのもまた自分自身だけだ。自分の頭で考えてそれに対して自分で行動していくこと。それ自体は難しくない。難しいのはそこからだ。