Carpe Diem

Think good thought.

ピルグリメイジ

 

 ピルグリムという単語の方が知名度が高いだろう。ピルグリム・ファーザーズ。巡礼。ある人の歴史、訪れた場所、交流などを辿っていく旅のようなもの。単純に巡礼という一つの単語でも含まれる意味はもう少し広いし日本語一語で表すのも簡単ではないかもしれない。観光の勉強をしていると聖地巡礼という言葉を良く耳にする。アニメなどにも適用されている言葉でそのもの語りの舞台になった場所をファンが訪れる、そして消費をし、観光活動を行うといったものであっただろうか。しかしながら、ピルグリメイジという言葉は今回本を読んでいて出会うまで知らなかった。無意識に行っている人も多いし、積極的に行っている人もいるだろう。旅の目的になっている場合もある。そして旅を超えて人生の目的のようになっている人も少なくはない。もう少し広げていくと、誰か他の人の人生を再び辿らずにはいられない人もいるはずだ。ある人にとってそれは喜びになるし、ある人にとってそれは呪いかもしれない。けど、積極的にポジティブな意味でとらえることが多いのではないか。巡礼という言葉自体をとってもネガティブポジティブで判断するのは簡単なことではない。

 誰でも、巡礼に関わることをしたことがあると思う。自分のことをもう一度知ろうとして色々な場所へ向かうこともそう呼ばれるのだろうか。実際に自分はそれをしたことがある。自分が育った場所へ何度か帰った。転勤によって自分が育った場所への距離と時間がどんどんのびていった。大人になって昔遊んでいた場所、通っていたお店、なじみ深い景色を見るために2,3度足を運んだ。その度に見えてくる景色は変わる。場所は同じなのににおいや感じること、悩みや将来への期待、現状に関しての捉え方も一切同じということはあり得ない。その場所に足を運ぶことで何が得られているのかははっきりとわからない。けど、そこに行かなければ見つからない特別なものがあるのではないかと思ってしまう。そう思わせる力こそがピルグリメイジの魅力かもしれない。ここで今思ったのだけど、その場所がもう自分に必要がないと感じたり、悲しすぎる場所、マイナスの影響を及ぼすとわかっていたらその場所を訪れることはないと思う。だから、辛い気持ちがよみがえったりするかもしれないが、なにかしらポジティブなイメージを抱えて同じ場所を再び訪れるのだと思う。巡礼には希望があるべきなのかもしれない。

そこにはいろんなものが留まっている。そこから新たな物語を紡ぎだし、明日への希望も抱いていく。そのためにも、誰にでももう一度訪れ、後を追っていくことが必要な場所がこの世界のどこかにあるのだと思う。

 自分だけじゃない。自分に関わりのある人の足跡を追いかけていくこと。坂本龍馬を好きな人が高知に行ったり長崎に行く。銅像を見たり、同じ浜辺に立って海を眺めいろんな思いを抱く。それは人によって大きく異なる。実在したものかもしれない。人ですらないかもしれない。誰かが作り出した物語にでてくるものも多いだろう。そう考えると本物の巡礼も、何を対象にしているのかを明確にして行くと少し道に迷い込んでしまう気がする。何が物語で、何が実在し、何が本当に存在しないのかは誰にだって見分けがつき辛いものである。そこにある物語が重要なのかもしれない。時間をかけて成り立った歴史、伝説、物語。ある人は追いかけるものにもの凄く強いこだわりを持つ。ある人が対象であるとしたらその人の出生地、下宿先、そして無くなった場所からついにはお墓まで。その人の足跡を辿ろうとすれば何処迄も辿ることは可能だろう。これらの定番の場所だけではなく、その追いかけている人と自分の間の個人的な距離感も特別なものを生み出す。大勢の人が知らない場所、自分だけが知っているその場所を訪れたときは感慨深いのかもしれない。

 自分が死んだ後のことを気にする人は少ないかもしれないが、もし自分がそのピルグリメイジの対象となっていたらどうだろうか。それは楽しくて嬉しいことなのか、はたまた気持ち悪いものなのか。生き残っている関係者に迷惑がかからないことを祈ることぐらいが精一杯出来ることなのかもしれない。

 その場所に立ったからと言って、同じ景色を見たからつまりその人と全く同じ気持ちになれる訳ではない。同じ知識や経験を得られる訳ではないことはほとんどの人が知っていると思う。それでもなお、何かを求めて、懐かしき気持ちや達成感のためにか人は自分の中の大切な人が歩いてきた道を自分で再び歩こうとする。そのような人がたくさん通った道には何かが残されているのだろう。その場所に留まっている何か。自分が変わると思えるような希望。そしてこれまで他の人も通ってきた道を自分も行くということ。自分だけの人生を歩いていると思っていながら、実は人生が巡礼のようなものであったといつか気づくかもしれない。それは誰かの歩いた道であったし、これから誰かの歩く道なのだ。