音痴など存在しない。
本当に音の区別をつけることができないとしたら、自分が誰と話しているかわからないし、相手の声から表情や気分を想像することだってできないだろう。
あらゆる可能性をどう捉えるか、どのように向き合っていくかがすべてなのかもしれない。
まだ起こっていない現象を信じることができるか。
自分一人しかそれに取り組む人がいない時、それは誰の勘違いなのか。
周りがそう言ってくるかもしれないが、周りだってすべての人を知っているわけではない。
自分だって、誰も支えがしないと考え込むこともできるが、世界で誰か一人でも同じように考え取り組んでいる人がいると信じ込むこともできる。
そして歴史上のリーダーの多くがそうであったように、彼らはどんな状況でも自分のビジョンを信じている。
そして時に、周りに誰がいようがいまいがそれは関係なくなる。
そのビジョンはただの理想ではない。
自分が確実に実現させるものであると同時に、そのビジョン自体はもう自分の中では実現しているのだ。
もう、信じきっているし見えていて他人にはどうも変えられないようになっているらしい。
それが他の人に響いたりすることで信じられないッパワーとなり、実際の世界でもものすごいスピードで実現していく。
そして多くの場合、そのリーダーがいなくなったとしてもそのビジョンや信念は生き続けて影響は残っていく。
Never be afraid to open your heart.
Or
Open your heart not to be afraid.
私は程度の軽い色盲だった。
大人になって病院に行くまでそのような症状があることは知らなかった。
すべての人が見ている世界や色合いは同じだと疑わなかったわけではないがそんなこと疑問に思うこともなかった。
しかしながらそれに気づくまでに幾つかの症状はあった。
靴を買いに行った時、バッグを買いに行った時。
帰ってきた時にじっくり見返してみると、自分が店で見ていたものと違う色のものがそこにはあった。
たまたま同じメーカーの品を二つ買って、一つ目から二つ目の間には何年かの期間があったが、同じような思いをしたのである。
しっかり光の下で色も確認し気に入って買ったつもりだったが、家に帰ると自分が購入したとは思えない色に見える。
そして病院に行って細かい色を順番に並び替える検査をする。
特殊な器具をつけることもなく単純に、子供が遊ぶよう、しかしながら深く悩んで色を並び替える。
うまく並んでいなかったらしく、医者からは自分の見える色には偏りがあるということが告げられた。
しかし程度はひどくないらしい。
ひどいと言っても誰とどう比べているかもわからなかった。
それ以来私のは他人と自分の色の見え方の違いがあることを認識する機会が増えていった。
緑とグレイと黒の区別がつかなかったり、青やが深く見えて蛍光色がよりはっきり見えると言ったら想像しやすいと思うがここではあえて伏せておく。
そのうちに思ったことは絶対もないし、相対でもないしといった不思議な感覚だった。
どちらかというと絶対なのだろう。
誰しもが同じように世界を見ていない、もしくは、誰しもが同じように世界を見ようと思ってもみることができない。
そんな事実に気づいたのが、もう自分が大人になってからだった。
ものすごく空を見るのが好きで、ある時には夕方の美しい空の写真を100枚以上撮影していた。
大麦が長くなっている畑の中に一人で立って、空を眺めながら一時間以上過ごしていただろうか。
近所を歩いているおばさんも心配していたし遠くから自分のことを話しているのも聞こえた。
自分につられて彼女たちも空を眺めていたが特に関心もせず自分に何があったのかと気になって心配せずにはいられないようだった。
青にもいくつもの種類がある。
夕日だってそうだ。
同じ夕日や朝日を見ていても、同じ場所から見ていても誰しも同じ感想を持つとは限らない。
赤い光に感動しているものもいればオレンジにだけ焦点を当てている人もいるし、その人にしか見えないゴールドという色が素晴らしくて感動しているのかもしれない。
綺麗だねと言ってその場所で感覚を共有している気はするし、実際に素敵だ美しいという意見は一緒なのだが見ているものは全く異なっていたりする。
それを知らない面白さ、それをも超えられる共感の素晴らしさを見出すことだてできる。
誰かと差をつけようとしようがしまいが、皆同じような感覚で同じように何かを消費することはできない。
もともと個性というか皆によな割った才能と呼ぶこともできる。
音痴、味覚に自信がない、どんな料理を食べておおいしいかわからない。
興味関心、知識もあるのだがそれよりも個性というか程度の差こそあれど個人には違いというものが存在する。
勘違いなのかもしれないが、私には空が美しく見えるし、自分の子の消費の仕方が出し好きで、いつかは誰かにもその世界を見せられるのではないかと思う。
文章で、あるいは何でできるだろうか。
人をその場所に連れて行くことかもしれない。
私はそう信じて疑わない。