Carpe Diem

Think good thought.

夕日

 

 誰がそう言ったのかはここでは明らかにしないが、この同じことをずっと繰り返し言いつづける人がいる。その人にとってはこの上なく重要なことであったのだろう。そして今でも重要なことなのだ。その人の話はいつも同じで間違いがない。パリで見た夕日がとても美しかった。橋に座りながら。カメラがその頃はデジタルじゃなかったから電池もないしフィルムも変えなければならなかった。けど、それが問題なったわけでもない。その夕日の写真はとっても美しかったそうだ。かれこれ30年以上も語り続けるぐらいに。聞いている方としては自分がこれまでに見た最も美しい夕日を思い浮かべることくらいしかできない。そして、パリに行ったことがあるのならパリで、おそらくセーヌ川に架かる何処かの端を思い出して、そこから夕日を見ているところを想像するしかない。その人はいう。本当に夕日が美しかった。その人の見てきた中で最も美しかったのだろう。そしてそれを記憶しているもう一つの理由。カメラが壊れたこと。カメラ自体がいきなり壊れてしまったらしい。部品が取れたとかフィルムがなくなったわけではなくてその夕日を取ろうとしてシャッターを押したらもう壊れていたらしい。写真が撮れなかった。その最も美しい夕日を写真に収めることができなかったのだ。嘘みたいな話だが本当らしい。外傷というか、物質的な欠陥は見当たらないしシャッターも押せるのに記録できない。そんな話あるかよと思うがそうであったようだ。彼は、それを恨んでもいないしとりわけ楽しみながら話しているとも言えない。そんな現象が起こったんだよと、気楽位に他人事のように話している。けど、その夕日の美しさだけは譲らない。もしカメラが壊れなかったとしても、その夕日は彼にとって最も美しいものとして記憶されていただろうか。30年前のパリの夕日。きっと今見えるものよりも美しいのだろう。何度も聞いていると本当なのかと疑ってしまうけど、誰でも夕日についてのストーリーは一つや二つはあるだろう。そしてそれは特別だ。特別すぎるがゆえに記憶も変わってしまう場合がある。そこでは夕日そのものよりも物語の方が重要なのかもしれない。そんな素敵な(あるいは興味深い)物語を生み出すきっかけとなる夕日はとてもすごい。

 夕日は意識しなくても、見ようと望まなくても比較的簡単に目にすることができる。季節によって夕日を見られる時間も変わっていく。ある時には、夕日を見たくない(そんな気持ちがあるのかは知らない)のに見てしまうことだってあるだろう。秋は文句無しで夕日が最も美しく夕日を見ることができる季節だ。富士山も非常にはっきり見えるし夕日には余韻もある。秋の夕方に現れるあの信じられない空の色には変わりがない。自然が生み出す色というものは時に信じられないほどに人の心を動かす。人工の色なんていうものはそもそも存在しないのかもしれないが。雲や星も見えてくる中でも夕日はまだ残っている。

 夕日が現れてからの空の色の移り変わりは芸術だ。ある時僕は、夕日を長い間見続けていた。東京にプロのサッカーの試合を見に行った。後半に近づくにつれて空の色が変わってきた。雲もどんどん出てくる。雲が波を打ち始め奇妙な形に並んでいく。気持ち悪いわけではなくて妙に整っていた。そして、青空がだんだん減っていく。赤くなったりオレンジになったり、紫になったり。そして、完璧な空が現れた。それはその時しか見られないものだった。他の夕日もそうであるように、ほとんどの自然現象はその時しか見られないものばかりだ。本人が望もうが拒否しようが自然はただ通り過ぎていく。私はいつも、湯日という言葉と夕焼けを混同してしまう。そこの境に興味はない。ただただ、空が美しかったことだけを記憶し続けている。とってもきれいな夕焼け、夕方の空を見たことはいつまでも覚えている。けどその時に、夕日そのものを見ていたのかは思い出せないことが多い。この体験はその場合の話だ。その時太陽が、夕日がどこにあったのかは覚えていない。けど、夕方の空が信じられないくらい美しかった。だから私は空を見続けていた。その高い空の下ではプロが勝負をかけてボールを蹴っていたし、選手を見て応援し続ける人々に囲まれていたが、一人でずっと空を見続けていた。もちろんその試合の結果なんて覚えていない。

 もう一つ、夕日についての話。もし誰かに夕日を見るのに最適な場所はどこかと尋ねられたらこの場所を答えるだろう。つまり、自分が夕日に関する最高の体験をしたのはどこかという話。それはグリフィス天文台からの景色だ。頼りないバスに乗って展望台まで行く。バスがなかなか来ないので不安のまま30分ほどバス停に立っていた気がする。登って、バスから降りた時にはほとんど夕日は沈みかけていた。ひょっとしたらあの時夕日自体は見なかったのかもしれない。ハリウッドサインがギリギリ見えるくらいだった。肉眼なら何の問題もないが写真にするとかなり厳しいという具合だった。そう、もうすぐ夜景かという状況であった。けど、それは夕焼けのようなものだった。そしてその期間が信じられないくらいに長かった。いつになったら完全な夜景になるのだろうと驚いたほどだ。一二時間か、もっと時間がかかった気がする。青い空が黒に変わる。そう言葉にしてしまうと味気がないのだが、それまでに何千何百ほどの色が現れた。地球じゃないくらいに綺麗だった。宇宙飛行士が撮った朝日のような写真を見たとき驚きを感じるがそのような感覚もあった。オレンジ、紫、青。知らない色ばかり。それが本当に長い時間をかけて変化していく

夕日そのものを見るよりも夕日が沈んだ後変化していく空を見ているのが最高の贅沢なのではないかとその時に思った。そしてそれは間違い無いと思う。何百枚か写真を撮った。どうにかこの光景を目の前に、記憶に保存したいと思った。夕日は沈んでからの方が味がある。

 夕日自体ならサンタモニカから見た夕日がとっても力強かった。海に沈んでいう太陽。肌寒い季節なのだけど太陽がある限りはとても暖かい。無くなった時に、つまり沈んでしまった後で太陽はこんなにあったかかったのかと驚く。海と山と夕日。いろんな組み合わせ。多すぎても少なすぎても良くないのかもしれない。車もたくさん走っていたし、自然と人工の兼ね合いも重要で繊細な景色を作り出しているのかもしれない。一緒に誰かと星を見るのもいい経験だけど、夕日を見に行くのはとってもいいことだ。沈んでしまうまでの貴重な時間を皆で楽しむ。多分あのときあのば世で見た夕日は、彼がパリで見たものよりも綺麗だったのではないかと思ってしまう。多分誰もがそんな気持ちを抱えながら目の前の夕日に心を弾ませているのだろう。

 夕日は何よりも自分の目でその場所に訪れてみることが一番だ。文章を書くのが上手い人が夕日について書いたらそれは人を感動させることになるのだろうか。ものすごくつまらない夕日から壮大な感動を生み出したり、ものすごくきれいな夕日でも繊細すぎる表現を用いることで感動を減らしてしまったりもするのだろうか。言葉だけで伝えられることは限られているくらいに写真や映像だけで伝えられることも限られている。大事なのはそれぞれの人がその場所で抱いた気持ちや物語なのかもしれない。夕日自体かもしれないし、その後の空の色合いかもしれない。

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