Carpe Diem

Think good thought.

ハッピーエンド

 

 ハッピーエンドという言葉の響き自体がどこかしらハッピーに思えるのは自分だけではないだろう。内容が全く面白くないとしてもタイトルがハッピーエンドだったらどこかしら救いがある。後味は悪かもしれないが。少なくともタイトルを見て読んでみようと思う人はいるだろうし、堅苦しい政治や経済の話よりは取りつきやすいと思われる。ハッピーエンドという言葉からもたくさんのことを想像することができる。幸せな話が描かれているとまず想像する人もいるだろう。はたまた、ハッピーエンドであるということは結末が来るまでにそれなりの不幸や困難が繰り返されるのかと警戒したり推測を楽しむ人もいる。そして何人かに一人はハッピーエンドって結末をタイトルにしているならもう読む必要はないんじゃないかと訝ったりする。けど、自分としてはこの言葉も、この言葉を文章のタイトルにすることもなんとなく好きだし良いことだと思う。とっても好きな美しい曲を聞いたような気分になる。ちょうどQueenのA Day At the Raceというアルバムを聴いているかのような気分だ。美しくて重層的な音楽は何度繰り返しても飽きない。Heart Stringに触れるという言葉が使われる曲があるのだけどまさにその通りでいつになってもそれがやむことはないし色褪せることはない。時々色褪せてしまう本物ではなかった作品に出会うこともあるけど、数少ない本物に出会った時は最高の気分だ。感動が止まらない。

 なぜ、今ハッピーエンドについての文章を書こうと思ったか。もう一つ書いてみたい文章がすぐさっきまで存在していたがその内容を忘れてしまった。そしてもう一つ理由がある。今月は毎日3000字の文章を書いてきた。毎月1000後ずつ増やしていき今月はここまで来た。書いてみての感想はなかなか面白かった。スラスラと書ける日もあったが、毎日の予定もあって継続的に一定のペースで書くことはできなかった。一つ一つの文章に対して難しさは感じなかった。書くことがなくなってしまうこともなかった。3000字というものがどれくらいの長さかを体で感じるにはとても良い機会となった。一本を書き上げるのに大体30分かかる。どんなに変で難しいタイトルであろうとくだらないようものでもかかる時間自体は同じくらいだ。そしていつの時もテーマや書きたいことを頭の隅においてなんとなく意識しつつ、本番や書いているときは手の動きに任せている。本当は何も考えていないというかどんな言葉が自分の体の中に溜まっていてどのように表現されるのかを自分も楽しみながら待っている。表現されたものを見て満足することも多いし全くうまく書けなかったと少しがっかりして終わることもある。どちらにせよ、何かはそこで生まれるわけだしその事実は好きだ。3000字を、30日書く。計算してみると(とっても簡単な計算だが)90000字になる。新書が大体何語で書かれているか。いろいろと聞いたことがあるが、12万というのを一つの目安としている。ちょうど他の文章も書いているのでそれくらいは今月書いたのではないかと思う。今月は一回、初めてだが24時間以内に33000字を書くというのをやってみた。結果的にそうなったのだが非常に良い経験だった。苦しくもなかったし、同じようなことばかり延々と書いていたかもしれないが気持ちよかった。1日それに費やしてしまうことにはなったものの。テーマや目的を持って書き始めてみたのも良い試みだったし字数を制限したのはかなり勉強になった。何事にも制約はあったほうがいいとは思わないけど。続けなければならない理由にもなったしモチベーションにもなった。取り組んでみてわかったことの量から考えて十分な取引だったと思う。これから4000に増やしていくことはないと思う。それは自分のスタイルには合っていないしそこを重視することで失われてしまうことが確実に存在するからだ。それはそれでいいのだけど単純に体と心が受け付けないだけかもしれない。

 制約があるから文章が続くこともある。短すぎてはいけないと序文に無駄と思えるようなことやたくさんの就職を詰め込みすぎてしまうことも多々あった。最初から書きたいと思っていたものにうまく触れられずに終わるというのは少し苦い経験だった。書いたものを読み返すという行為はほとんどしていない。訂正もしていないしいちいちしていたら時間がかかることは明らかでそこに注力しようとも思わない。それが必要になったときにするだろうしそれを行うのは自分でもないだろう。たくさん文章を書いてきた気がする。その中で自分が気に入っているものがいくつか生まれたのは良かった。その時の感覚は今でも残っている。不思議なもので、自分が自分のために書いている文書であっても自分にすら気に入ってもらえる文章というものは少ないのだ。それでいて様々な作家の文章にころっと惚れ込んでしまう人が多いのも面白いと思う。自分はどんな文章が書けるのか。どんな文章を書こうとしているのか。そんなことを考えてみるのも非常に面白いと思う。他人にできることを自分なりのやり方で自分のゴールに向かってやることにも大いに価値はある(と、自分は信じている)し、そう自分で思わないと何も始まらない。消費にも生産にも制約をそれほど設けずに。

 今日が今月最後の日。だからこそ何かハッピーなもので終われたら良いなと思った。どんなに頑固な単も、死ぬ前にベッドの上で家族にありがとうというだけで印象が変わると言っていた。別にそれを求めているわけではないけど。けど、その人が死んだとして最後に書いていた文章がとっても楽しい話だったか、もしくはありえないほど悲しい話だったかで大きく印象は変わるような気がする。どうせ死んだ人は口出しできないし、後にも生き残っている人が推測やらいろんな結びつけをして楽しむものでしかないけど。けど、あの人が最後に書いたハッピーエンドっていう文章は非常に面白いよって言われた方がなんとなく幸せなんじゃないかなって今思ったわけで。そう狙って書くよりも、本当に死んだ時に最後に書いた文章がハッピーなものだったらそれこそが本当にハッピーエンドじゃないかなって一瞬思った。皆がそう考えるわけでもないだろう。

 実際に今月最後の日は幸せなことがあった。もう一生会うことがないかもしれない人に出会えたし、これまでしたこともなかったけどプレゼントを渡すこともできた。プレゼントは本当にもらった人もそうだけど、あげる人の方が楽しかったりすることの一つだと思う。とっても素敵ですね。しっかりとしたもののプレゼントというものをこれまであげたことがなかった。そして、あげる人に関しての話をした時に周りの人も賛成してくれた。それが嬉しかった。家族全体でプレゼントをあげられるというのはとても素敵なことだと思う。あげた後、もらった感想を聞きたくてしょうがなかった。嬉しかったか、揚げたものは綺麗だと思うか、どこに飾っているのか。家族には話したのか。みんなどのように感じてくれたのか。けど、聞かない。それを想像することも楽しいし、自分がプレゼントを渡す前にあれこれ考えるのがおそらく最も楽しかった。ハッピーエンドを書くことは難しい。一人一人と毎日最後の出会いが繰り返されているのかもしれない。ハッピーエンドを狙って書こうとすることはもちろん大切だけど、生きていた上で、死ぬ時のちょっと前に何かいいことがあったらそれは幸せなことだと思う。ハッピーエンドがこれからも起きることを願う。