オリンピック国立公園 Chapter 1
なぜそのような名前がついたのだろう。
この前を聞いてどこの国のどんな場所にその公園があるのか想像できる人がいるだろうか。
オリンピックという名前に関する場所は世界中に散らばっている。
オリンピックが開催されたことがある国はこれまでいくつかを知らなくても、その国で開催されたかはなんとなくわかるだろう。
香港やシンガポールの繁華街のすぐそこにも、その名前を冠した橋や公園のようなものが存在していたような気もする。
目に入って少ししてからきになる。
ここではオリンピックは行われたのだろうか、どんな関係がそこにはあるのだろうか。
ある偉大な作家は、この街を最後の住処とした。
偉大な作家と呼ばれる人は世界に数少ないというわけではない。
もし一人からでも感謝や尊敬、情熱を抱かれたとしたら彼、もしくは彼女は誰かにとっての偉大な作家であることは間違いない。
それが自分の唯一の子供だとしても、暇つぶしに自分の本を嫌々ながら読んでくれる妻だとしても。
その作家の作品は自分の国にその作品が広まるだけではなく、他の国の言語に翻訳された。
作家が生まれ、その言語を用いた国からもっとも離れた国でもその作品は翻訳され少なくない数の読者が生まれた。
私もその一人でその偉大な作家の作品を幾度もなく読み返した。
今になって考えてみると非常にシンプルな文章だ。
翻訳されているにもかかわらず、まるで原文を読んでいる気分になった。
すっきりした文章で無駄なんて見当たらない。
そこに無駄を見出そうとする人なんていないだろうし、そのような余地すら存在しない。
世界的には、彼は偉大な作家であるにもかかわらず有名ではないかもしれない。
もしかしたら、その地球の反対側で生まれ、その本を翻訳した作家の方が世界的には有名だったかもしれない。
なぜ私がこの作家の話をしているのか。
そこには何か繋がりのようなものが感じられるからだ。
そして彼はまちがいなく私が偉大な作家と呼ぶ人の一人だからだ。
そしてまた、オリンピックに関わるからである。
私が初めてその場所を訪れた時はまだ十代だった。
まだ十代と自分のことを読んでいるうちは若いのかもしれない。
まだ四十代だったとそのうちすぐに、当たり前のように言いだしているのかもしれない。
友人がその国には住んでいた。
私がその国を訪れたのは確か二回目だった。
自分の国を出ることは、その後も私にとっては重要になることで数も少ないのだが、なぜだかコントロールできているようでできないことの一つだった。
好きで出発しているにもかかわらず、どこにたどり着くか、いつ帰ってくるのかはほとんど自分で決められない、旅任せだった。
この二回目の旅は私に多くの影響を与えることになった。
この歳になっても思い出すことが多い。
今日になるまで、私はこのことに触れなければいけないことはわかっていた。
私の中には、語らなければいけない過去のことが溜まりに溜まっていた。
その中でも避けて通れないもっとも大きなことがこの話なのかもしれない。
今すぐ、このオリンピックの話をしなければ、その大きな岩が川の流れを止めてしまうような気分だった。
ここを突破しなければ私の才能も枯渇するし、次に進めないと感じた。
偉大な作家にとっては最後の土地となったが、この土地は私の始まりの場所と言った方が正しいだろう。
あの時も今も、知らないことばかりだ。
しかしながら、あの旅であらゆる基準が生まれたことは明らかでそれを文章にするまでに何十年もの月日が経った。
今でも思い出すのは幾つかの風景。
港から、隣の国が見える。
そして朝の立ち込めた霧。
見上げて目に入った人工衛星。
若かった自分に大いなる印象を与えたそれらの景色をまだ私は越えられない。
大きすぎるパンケーキとピザ、それらのことも覚えているが、あの場所の空気や肌にまとわりつく感覚、新鮮な朝から隣の国の景色、青空までも何もかもが感慨深い。
自然に勝るものはないと一言で言うと味気がなくなってしまうが自然より強烈な印象を人に与えるものはない。
ある時にそれは暴力的で攻撃的だろう。
そしてあた、神々しくもあり親密で突き放されもするし包み込んで守ってくれることもある。
それはまるであの偉大な作家の文章のようだ。
彼の文章はどこかがおかしかった。
読んでいて強くなることもあったし一回だけでは状況が読み込めないことばかりだった。
文化の違いや常識の違いというわけではなく、想像する力の違いだったのだろう。
二面性という簡単な表現では足りない自分物描写。
環境に全くフィットしていないことをしている人々。
結末なんて全く気にならないくらい、会話や物事のアリたちの真ん中だけをぶち抜いたような作品。
彼は数多くの短編、または長編と言えない中編のような作品を生み出した。
結末や内容を書き換えた作品も多い。
私の、この国立公園とその自然に対する印象も今後書き換えられていくかもしれないが
今記しておこうと思う。