Carpe Diem

Think good thought.

一つの情景を描くこと

明日は台風一過だとわかれば心が晴れるであろう。

台風が来るのが嫌で仕方ない人もいるが、私はその少しだけ先にある天気の良さ、信じられないほどに美しい雲、高い気温のことを考え心を弾ませる。

いや、自然と心が弾んで来ると言った方が適切だろう。

もしくは胸が高鳴る。

 

一つの情景を描くこと。

以前一度だけ、挑戦したことがある。

この時、挑戦すること自体に対してものすごく勇気を持って取り組んだ。

心配していた、不安だった、面倒だったからではなくてとにかく想像できなかったからだ。

うまく終わるかではなくて、そのことに取り組むことにすら辿り着けないと思っていた。

実際に手を動かせばそんなこと簡単に終わるのだが。

その内容とは、自分の住んでいる街を描写してみるということ。

生まれ育った街とは言い難いが、私はこの街に十年以上住み続けている。

大きな変化から細かい変化までしっかり見てきたし自分の足で歩き回って多くのことを見つけてきたと思っている。

時に意図的に、ある時には無意識に。

駅がある。

そこが出発地点だった。

そこ以外から始めることもできるのだが、言葉にする前に頭に浮かんでくるのは地図。

正確な距離も建物の一つ一つも、道も信号の数も全て頭に入っている。

そこから自宅に至るまでの文章を書いてみようと思って、取り組んでみた。

その道のり、街なり、雰囲気を言葉を通して表してみようと思った。

しかしながら、ほとんど何もできず文章も続かないままでその取り組み自体が終了してしまった。

無力感に打ちのめされたわけではないが自分には向いていないだろうかと強く思った。

 

何かを描写すること。

実際に存在するものをありのままに描くことが得意な人。

自分の頭の中にしか存在しない無形のものや、そもそも物質として存在しないものを描き出す力。

人それぞれ得意不得意はあるだろうし、絶対にその人にはできないこともあるのだろう。

私の場合はどうだろうか。

この段階で決めつけてしまってもそれほどメリットはないし、今後の訓練や感覚の変化、技術の成長によっては得るものも失うものもあるだろう。

今時点で思うのは、あるものを、そのままに描写することは自分には非常に困難だということ。

文章を書くこと自体は大好きだ、と言い切れるわけでもないが自分に関わるあらゆるものの中でも抵抗なく自発的に進められて楽しい物事の一つであることは確かだ。

幼い頃からの文章を振り返ってみても、自分の考えについて書いていることが多かった。

どのように感じているか、何を思ったか、その時の印象はどうだったか。

もちろん対象は存在することが多い。

その青空の美しさ、建物の細くて複雑な装飾、カキフライの美味しさ、犬の毛の柔らかさなどあらゆるものは私に刺激を与えてくれたし、表現しきれないほどの感情を常に持ち続けていた。

しかしながらなぜか、避けてきたつもりもないがその対象自体を正確に、誰もが見える形で、もしくは文章を読んだ多くの人のイメージが一致するようには描くことができた試しがない。

私の文章を読んでカキフライを食べた私がどれだけの興奮と感動を覚えたかはイメージできる人がいるかもしれない。

どんなカキフライだったのかにすら触れることも少ない。

だから、読者としてはカキフライのイメージは千差万別で大きさも形も匂いも違うことが当たり前だろう。

私はそれを美味しく感じたが、同じものを食べても他の読者は感動しなかったかもしれない。

そして、私がもしカキフライに関しての描写に時間を割いたとしても、誰かがよだれを垂らしたりそれを食べられる店をリサーチするといった衝動や欲求はそこから生まれてこない気がする。

 

私は、描きたいと思い続けてきたし、これからも想い続けるだろう。

それは例えば、ニューヨークの五番街で見たカルティエの店舗。

芸術でしかないと思った、その光の当たり方と建物の美しさ。

写真をこれまで何枚も撮ってきた。

その写真をテーマに文章を書くのだが、その文章はどんどん私の気持ちの方に走っていく。

その写真に写っている建物自体からは離れ続けていく。

どうやってそれを描写したらいいのかわからない。

この文章と同じで、その状態に戸惑っている自分の様子や感情だけが描写され続けることになっていく。

 

文章だけではなくて絵でもそうだ。

目の前にあるものをそのまま描くことは私には向いていないように思える。

それよりも対象が花であるとしたらより全体の雰囲気、目に見えない香りや暖かさを描こうとしてしまう。

もちろんそれはないものを書き加える作業で実物よりも美しくない結果に終わることばかりだ。

それが得意な人がいるのも非常に面白くて、他の人には見えないものしか書けない画家もいる。

どうやったら、静物を文章で表すことができるのだろうか。

そしてその文章を読んだ人が、文字を見て、読んで、イメージしただけで自分が今書いているように感情が揺さぶられたり行動に移るようになるのだろうか。

まだまだ道のりは険しい。

 

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