記憶は美化されるためにある。
彼女はそう言った、気がした。
けど実際は違っていた。
それは僕が考えていたことでもあり、彼女の意見を聞いてからすんなり心に収まった表現だった。
記憶なんかすぐに変わるし、自分でいいように変えているだけだよ。
そんなことを言っていたと思う。
確かにそうだと思う。
美化するというとなんとなくポジティブな言葉に聞こえるが、そうとも限らない。
ネガティブなものも含めて、自分に都合がよければ美化ということができるだろう。
そして、自分が苦しんだり悲しんでも、形が変わったとしても何かしら心に響いていればそれは美しく変化したと呼べるのかもしれない。
どこで、自分の人生が変わってしまったのだろうと思ったことがある。
それはつまり、他の人と離れてしまったこと。
自分らしくなれたとも呼べるし、一歩目を自分の目で見つけたような錯覚を楽しんでいただけかもしれない。
けど、どう考えても生まれてからその日まで、そして今日までもこれからも誰かと同じ道を歩いてきたなんていうことは決してない。
自分なりにターニングポイントとしたいのはどこだろうか。
誰にでもそのような場所、地点があると考えても間違いではないだろう。
彼女の場合はどこだったのだろう、彼女はどんな記憶をどのように美化したのだろうか。
聞いておくべきだったかもしれない。
あれは諦めの言葉だったかもしれないし期待の言葉だったのかもしれないが、今となってはもうわからない。
その二つの選択肢、いや、それ以上の解釈があり得るということさえもその当時はわからなかった。
どこだったのだろうか。
一つ思いつく場所がある。
ラスベガス。
あらゆるホテルに入った。
フロントを見て、お土産屋に入り、カジノスペースに入る。
規模がこれまでの人生で見てきたものとは違った。
何もかもが新しいというわけではなくて、何もかもがこれまで見てきたより大きくて、質が良くて、匂いが良くてというな印象で、そう、何よりもそのイメージ全体が素晴らしかったのだ。
記憶は確かに変化してしまうだろう。
意図的であれ、自然な形で消滅してしまうものだとしても。
けど、その時のラスベガスのイメージは間違いなく大きくて、とてもよかった。
後から誇張して、拡大していると言われるかもしれないが、元々が大きかったのは間違いないしそれは断言できる。
そしてもう一箇所。
ラスベガスから一泊二日で訪れたグランドキャニオン。
目の前に広がる青空とぽっかりと浮かぶ雲。
山が地上から空に向かっている景色はこれまでなんども見てきたし、それしか知らなかった。
目の前の空間が、へこんでいる。
そしてそれが何キロにも渡って続いている。
これはどういうことなのか理解できない時間が一瞬ではなかった。
しばらく見続けてもわからずじまいだった。
何か美しいものを見たと人が言う時、その美しいという言葉は、これまで見たことがないものだったということを伝えているのかもしれない。
今になってそう思う。
夕日も、朝日も見た。
その時初めて朝日の美しさを知った。
なぜ世界では夕日の美しさばかり語られるのふだろうかと疑問にも思ったが、早起きする人が少ないだけの話かもしれない。
その時の自分お研究テーマは自然と人工の対比といったようなものだった。
これは間違いないし、記憶というよりは事実だ。
何にもない砂漠に、世界中から人々が楽しみに来る街を作り出す。
そして、人が作ることなんて決してできない景色。
どうしようもなく美しいグランドキャニオンの自然。
自然という言葉はとても多くのものを含んでいて、僕の場合は青空も、風も、緑もリスも、朝日も夕日ももちろんその一部だ。
そしてもう一つ、ミラージュでThe BeatlesのLOVEを見た時。
あの時に何かが変わってしまった気がする。
その時に曲名がわからないのは二曲だけだった。
Black Bird, Becauseだったと思う。
そして帰り道の夜、Octopus Gardenをギターで弾くことができるという女の子に恋をしたことも良く覚えている。
円状の客席から、The Beatlesの曲を聴きながらのスタンディングオベーション。
あの旅には、何もかもが詰め込まれていた。
導かれていたような気が、今になっては強くある。
これまでの進んできた道と、これから進んでいく道を暗示しているような旅だった。
自分の人生のターニングポイントはどこであったか。
そんなことは簡単に決められるし、自分以外の人にとっては全く重要でない。
自分一人で遊んでいる、記憶と共に遊んでいるだけなのだろう。
けど、そうやって美化できることもとっても魅力的なことなのではないだろうか。
変わるのはもちろん記憶だけじゃない。
過去のことなんてすでに消滅しているから帰るも買えないもないのかもしれない。
けど、変えられるなら、どうせなら、楽しくしてみても良いのではないか。
これは先のことにも当てはまるかもしれない。
そして、こんな記憶もいずれかの形で美化されていくのだろう。