ここ半年、いろんなものを減らしてきた、捨ててきた。
背負ってきたものんを一旦からにしたかった。
その方が自分に合っているし、これまでは十分無理してきたのかもしれない。
負担だと感じていたこともあったし、全く苦しくなく楽しいものもたくさんあったが。
何が自分にとって本当に必要なのか。
そして、本当に嫌なもの、いらないものは何か。
それを考えたり感じたり知らされたりして、それに行動を合わせていった感じだ。
結果的にかなり軽くなってきたと思う。
今日もいろんなものを整理した。
いろんな作ってきたものを消した。
色々変化のきっかけはあったと思う。
その時に力を貸してくれた人のことはよく覚えている。
ほんの少しだけど、人の内側に入って手を差し伸べることができる人はすごい。
そこまで相手のことを思える人は本当に少ないのだなあと感じた。
自分もこれまで色々と大胆なことをしてきたと思う。
自分もこんなに変わったのかと今は思う。
当時必要だったのだろうけど、今は全く必要なくなっているものも多い。
完全に昔とは異なる。
将来またそのようなことを言い出すだろうし、時間をかけて作ってきたものを消していくのだろう。
過去へのこだわり、物質への執着が待たなくなってきた。
それに応じてかやる気、根気もなくなってきたように感じる。
手に入るものだけに手を伸ばし、最初から受け付けないようになったり。
思い、長い作品を読める体力が今の自分にはないような気がする。
軽くなって、もう少しですべてから解放されるようなところまで来ているけどうまく加速できない。
これまでのことが本当にバカらしいとも思えるようになった。
皆必死だったのだ。
今は必死じゃないのかもしれない。
いろんなものを得て失って。
失うことが当たり前のように感じられる。
それが怖いんだけど諦めのような開き直りのような。
信じることの素晴らしさを知って、誰にかは知らないけど大きく裏切られたような気もして。
信じたいような信じたくないような。
けど結局、明日を信じないということは期待することと同じ。
過去よりももっと、今に目線が行くようになった。
その割にはできていないことが多い気もするのだが。
時間は平等だという。
どんな優れた人も恵まれない人も同じだと。
それをいかに使うか。
他人と人生を比較する。
そこにはもちろん違いやさ、優劣が存在してしまう。
自分が選び、感じるものもあるし社会から一方的に枠にはめられてしまう。
自分の中での比較。
理想や将来や過去と今を比べる。
そこに喜びを見出したり悲しさを見出す。
誰もが何十年も生きてきたのだから、それなりに見てきた景色はある。
というか平等なのだ。
誰がどう言おうと20歳なら確実に20年分の景色を見てきた。
他者と比べようが自分と比べようが関係はない。
それが、自分の生まれた街だけだとしても恥じることはない。
世界中を見て、回ってきた人もいるだろう。
他人と比べたら違いはあるかもしれないが優劣なんて正直ない。
まして、自分の人生。
自分で比較するというか自分で評価してそれがよくないとしたらそれは単なる悲劇だと思う。
それによって何かいいことは起きるのだろうか。
自分んが見てきた景色に満足していないのか?
自分がやりたいと思っていることはほとんどの場合、自分しかやりたいものではない。
そして重要なことは、自分以外の誰かがやってくれるということは決してないということ。
だから何か自分でやりたいことがあるならば、自分でやるように。
誰も他人はそんなことはしてくれない。
他人がしてくれたことは単に他人がしたかったこと、それだけ。