Carpe Diem

Think good thought.

作家の話

好きな作家について語るときには、何を語ればいいのだろうか。

自分の考え方の何割かは、その人の影響によってできたと私は思っている。

 

読書の習慣というものを、生まれてから大学生の間までは持ったことがなかった。

習慣とは意識されたものであると認識している。

ある程度、そこには他人から見ると努力のような雰囲気を伴っていたり、当人が自発的に、積極的に行っているもので基本的にはポジティブに捉えられるものが習慣なのではないだろうか。

子供の頃、私はたくさん本を読んでいたらしい。

あるいは親がたくさん本を読んでくれた。

それはもっと幼い頃の話になってしまうが。

小学生の頃に自分で本を読んだという記憶はほとんどない。

誰かに命令されたり、教育という名の下読まされたりした記憶も特になければ自分から進んで本を読んで楽しもうとしたことはなかったように思う。

それはあくまでも自分の記憶で正しいかどうかはわからない。

他人に話を聞いてみると、それなりに、つまり他の子に比べて本を全く読まないということもなければ読みすぎるというレベルではなかったようだ。

それは自分の両親と比べてもそのようで、特に褒められることも心配されることもなかったしそもそも読書が食卓で話題になることはなかった。

けど、今になって家族に話を聞いてみたりすると、家には本があふれていたことがわかる。

それは今でも同じで、実家に帰ると大きな本棚があるし、その本棚には数え切れないほどの本が置いてある。

童話や偉人伝を子供のお露に読んだらしい。

表紙を見ればその人についての物語が思い起こされることもあるが、果たして子供のときに読んでその本から得た知識なのか、大人になって自分で学んだのかははっきり区別できない。

中学校に入っても、高校に入っても一人の作家にのめり込むということもなかった。

ただ一つだけ、読み続けていた漫画があったくらいだったと思う。

私の幼少期についての記憶は非常に漠然としている。

読書に関してだけではなくて、ほとんどのことについてほとんど覚えていないのだけが明らかだ。

暇があれば外に出てサッカーをしたりとにかく動き回って帰ってきたら寝ることくらいしかすることがなかった気もするが、それも自分で作り出した記憶というかイメージでしかないはずだ。

 

それが、大学に入ってから大きく変化した。

それだけ環境が変わったから当然のこととも呼べる。

これまでは自分で考えることなく目の前のことを淡々とこなしてきたし、何が脇目を振ることかさえわからなかった。

時間がたっぷりあって、やりたいことだけやれば良い。

元から自分の人生はそう造られていたかもしれないが、その事実にどっぷりとつかってみることにした。

意外とすることがない、という結末には幸い終わらなかった。

音楽をたっぷり聞いて、映画をたっぷり見る。

本を読み続けて、好きなスポーツを時間に関わらず見るようになった。

振り返ってみると、これらのことが実行されなかった時間は旅行をしている間くらいだ。

日常においてはそれらの行動が永遠に繰り返されているかのようだった。

テーマや細部は変わっていく、作者やプレーヤーは変わって行くものの構造と過ごし方についてはなんら変化しなかった。

そのうちの一つが読書。

好きでやっていたと言ったほうが正確だろう。

これを続けたら何か得をするだろうなと考えて始めたことで、続いたものは私の人生でこれ一つとなかった。

好きなことしかできないし、他のことよりもこれのほうがましと思えることしかしてこなかった。

 

ビジネス、小説、知識に関わるものなど自分ありに興味がある本を読み続け、小説などに関してはひどく引き寄せられた作家が一人いた。

結局に三年をかけてその作家の作品を読破し、二週目に入り、その作者に影響を与えた作品までをも読み漁るようになった。

今でも頻繁にその作者の作品を読み返す。

作者は男性で、存命である。

彼の視点、彼の考え方、文章は私の良いレンズとなったように感じる。

それらを通して自分がまた世界を見るようになった。

もちろんそれらだけではないが、自分の生き方に大きく影響を与えた。

だから、自分の人生を語るときにはその作家、彼のことが少なくとも語られなくてはいけない気がする。

彼にとっては全く関係のないことだが。

その朝方で、非常に世界的な作品を想像し、多作な作家は長編が素晴らしいだけではなくて常に人を笑わせるエッセイも生み出していた。

そして、私の人生と重なることが多いのではないかと感じさせるような人だった。

そのように、私のように感じた読者が世界に何万人もいると考えると非常に面白いことである。

個人とつながることが作家の最大の幸せでもあり責任だ、と彼は作品のどこかで記していたが本当にそうと言えるかもしれない。

今後、彼と私の関係も個人的に変化していくのだろうが、それも私の残りの人生で楽しみなことの一つだ。

そしていつか、私も多くの個人と心を通わせるときが来るのではないかと期待している。

 

f:id:nafk-10s231:20150516013606j:image