ダイレクトの悲劇
ある国では、自分の国の言語への翻訳があまり行われない。
マーケットとして非常に小さい。
需要はあるのかもしれないがそれが表面に出ていないし、採算が合わない。
コスト&ベネフィット。
だから、英語の番組を見たかったら自分で見るしかない。
英語を自分で勉強して理解するしかない。
面白そうなドラマ、世界ではやっている映画、自分が興味があること。
それはファッションかもしれないし学問かもしれないしスポーツかもしれない。
とにかく、本物に、一流に触れたいと思う。
そしてその一流は英語だけとは限らない。
その一流にコンタクトした時、そしてこれからコンタクトし続けようと思う時、そのアクセスは重要だ。
ダイレクトだと良いのだろうか。
直接しか選択肢がないというのは悲劇であり可能性を最大化させるのには最も優れた環境であるとも言える。
意思があるものしか手を出さない。
ものすごく時間はかかるが自分で身につけたものは後々自分を救ってくれる。
その訓練にコストはかかるし、その最初の部分に余裕がなければ継続できないかもしれない。
チャンスは非常に少ないのかも。
はたまた、クッションがあるのはどうだろうか。
あらゆる情報が手に入るし、自分で手間をかけなくて良い。
時間もお金も節約になるし、広範囲から物事を見たり仕入れたりすることが可能だ。
しかしながら、自分で直接、つまりダイレクトにそれと触れているわけではない。
二択ではないことはわかっている。
原文しか読むことができないが、その面白さや偉大さを肌身で感じることができる。
翻訳しか読むことはできない(一流の本質や機微に触れられないかもしれない)がたくさんのものに触れられるし手間はかからない。
ダイレクトは悲劇なのだろうか。