Carpe Diem

Think good thought.

嫌われること

 

 名言ではないかもしれないけど納得した言葉。ふと耳にしたのだか、自分で考え出したのかはわからない。いろんな話を聞いたり本を読んだりしていてもいなくても、どこからが自分のものであるかなんて簡単に区切りをつけられるわけではないし、そう思ってしまうと厄介なことがたくさん生まれる。「同じように人を愛すことはできるかもしれないが、同じように人から愛されることはないだろう」。確かにそうかもしれないと思った。自分が誰かを好きになる。全てを捧げても良いと思う。金銭的な援助も厭わない。お金に関係なく、一緒に多くの時間を過ごしたい。なんでもいいのだけど、相手のことを本気で思う。そして自分の思いを伝えたり行動に移したりする。それを死ぬまで続けていくことは可能だと思う。例え相手が変わったとしても。けど、これまで自分を愛してくれた人と同じようなやり方で自分のことを愛してくれる人に出会うことはきっとないだろう。自分のことを思ってくれる。なんでも素直に話したり。それは美味しい料理を作ってくれることかもしれないしいつもサプライズをしてくれることだったかもしれない。とにかく、自分でできることとできないことは絶対に世の中あるわけで、同じように人を愛することはできても、同じように人から愛されるとは限らない。どんなに激しく、積極的になろうと相手の思いを変えることはできないし、同じ相手に出会うことは二度とない。

 人との関係、付き合いについて幾つか学んだことがある。その学びは自分にとってはとても大きかったしこれからの生き方にも大きな影響を与えていくことだろう。今思うことは、嫌われてしまうことは本当に大きなものを失うことだということ。あまり好きな言葉ではないし、使うと議論にならなくなってしまうし、表現力もかけてしまうあの言葉を使いたいがここでは避ける。つまり、損失が大きすぎるということだ。嫌われてしまうと如何にもこうにもうまくいかなくなる。だから、開き直って諦めるしかない。そして対象を変え心を入れ替えて次の方向に、新しい方向に進んでいくことが最善だと思う。もちろん自分に非はたくさんあるはずだし改善すべきだと思ったことは必死に変える価値があるだろう。それを相手が教えてくれる機会があったらそれは貴重だし耳が痛くなったとしてもしっかり聞いておくべきだと思う。

 多くの別れも出会いも、劇的なものから些細なものまでたくさん経験していても悪くないと思う。時期は自分で選べないし、これはよかった(もしくは悪かった、つまりは価値があったと思える)経験が得られる時期を自分で選ぶことはおそらく容易ではない。けど、できるものなら早めに経験したいところだ。何が大切で何にそれほどこだわりはないかがわかってくる。自分にできることとできないこと。どちらにせよやってみるだけの価値があるとわかることがある。そこで思うのだが、好きだしやる価値もあるし自分でも是非ともやっていきたいと思ったことができないというのは非常に辛い。それこそ切り替えて次に進むべきだというのは頭でもわかっているしそうするべきだ。それでもそう簡単にできないということに誰しも出会ったことがあるのではないだろうか。自分ではそのような経験がないとしてもそのような作品を見たり聞いたりしたことはあると思う。自分は作家として一流になりたい。しかしながら妻のことを支えていくことに精一杯。精神病にもなるしお酒を断つこともできない。彼女がいないと自分の作品に花がなくなってしまう。インスピレーションも無くなる。彼女も、自分の人生も作品も大切にしたい。好きなものに囲まれているのだけどどれもが足を引っ張ってくる。どうしたらよいかわからない。そのような話をいくつも読んだことがある。ジレンマというか、トラブルサムというか。昔の小説にはそういうものが多かったりするしだらしないなあと読みながら思ったりするが自分も同じような経験をしたその日にはその物語の主人公に同情することになるだろう。

 好きなのにうまくいかない。嫌われる。うまくいかない。この感情とどのように向き合っていくかは重大なテーマでもある。諦めといったような言葉で簡潔に片付けてしまう対もののそんな勇気があるとも思えないし、それは勇気なのかもはっきりわからない。誰にでも好かれようとすればそれなりに困難が訪れるのも目に見えている。どうすれば良いのだろうか。このように迷うことでしか何かを学べないのだろうか。どうすれば良いのだろう。

 自分ではその人を愛している。しかし彼女は自分のことを好きではない。それ以前に関心すらない。という程度で終わっても十分に悲劇かもしれない。それよりも悪い話は世の中にいくらだってある。時代によってはその評価も変わるだろうか。それは笑い話になることもあるし犯罪というものにもなりうる。相手のことを思ってした行為も思いやりといって評価される日もあれば、計画的で執拗な嫌がらせとされて誰かや制度に裁かれる場合もある。このへんは理不尽な気もするし非常に合理的とも取れる。 そこには、法律なんかでは評価できない人間の複雑な感情が存在するのだと主張してみたくもなるが、そういったトラブルが起きたときにどう対応するかが問題であり法律もたくさんできてきたわけだから難しい話でもないとも言える。その人の安全を守るために後から見入張っていたがストーカーとみなされる。プレゼントを送ったけど嫌がらせだと思われる。難しくもないしありふれたことのような気もするけどそんな事件が世の中にはたくさんある。それと同じくらい美談も溢れているわけだから面白い。この辺の線引きは誰がどのようにしているのだろうか。恋愛だけじゃない。ビジネスにしろなんにしろちょっとした誤解や機会の損失で両者の溝は大きくなりうる。それはいつでも起こりうるし、ある日を境に正反対の結果が出たり味方が敵になったりする。なんでだろう。その時には必ず後悔することになる。どうすればこうならずに済んだのか。他の方法は存在しなかったのか。自分はベストを尽くしたのかそれとも相手に何か問題があったのか。その時でぱっと終わらせることのできる問題もあれば何十年も自分の心の中に住み着くものもある。あるいは、裁判のような制度のもと、長期間でなんらかの結果が出るのを待つことになるかもしれない。

 自分は、相手に興味がある。人生をかけて一緒にやってみたいことがある。虹ネスかもしれないしプライベートのことかもしれない。なのに、相手は自分のことを嫌っている。自分は嫌われている。この損失はとてもおきいのではないかと思っている。実際そうなんだと思う。自分はいかに優れたアイデアを持っていようとも相手には響かない。意見を聞く以前にあってもくれないし話をするきっかけも得られない。直接的な関係を経た上で拒絶されることもあれば評判や風の噂でひどい(と思われる)仕打ちを受けることもある。たとえ何億円を生み出す、何万にもの命を救う計画があったとしても嫌われているという理由でできない。それはこの上ない損失であろう。人から嫌われることは、もちろん割ることだけをもたらすとも言えない。危ない人も遠ざかっていくのだろう。それを考えてもやはり、人から嫌われることで失うものは多すぎるのではないかと思ってしまう。感情的になっているだけかもしれないが。