Carpe Diem

Think good thought.

過程

 

 様々な変化がある。けど、変わっていないものもたくさん存在する。この前久しぶりに友人に会った。とても多くの人がそこにはいた。二桁。それほど多くの人と一堂に会する機会は非常に限られている。最近はそのような機会をほとんど持たなかったのでとても新鮮だった。落ち込んだし、楽しかったし、つまらないところもあっただろう。色々と感じることは多かった。どこまでも自分は自分だと思ったし他人は他人だった。そしてそのグループはそのグループらしかった。

 その時に思ったこと。変わることと変わらないこと。どれくらいの人が変わってどれくらいの人が変わらないのだろうか。もう少し若い時にこれらのことについてよく考えていたと思う。変われるだの変われないだの夜が更け、開けていくまで語り続けたこともあった。変われるのは確かだと思うし変わっている。けど、結局同じところにたどり着くかもしれない。瞬間的には変化しても長期的には同じような場所に戻っていたりする。それを変化と呼べるのだろうか。変化とはなんであるというかをしっかり考えなければならない。それはこのことについてだけ言えることでもない。そんな時間はないというかもしれないけど、その言葉の定義自体を探すことが目標だったと最後に気づくことだってあるだろう。わからないことが多すぎる状態ではどこにもたどり着くことができない。同じことについて語り合っていると思っていても結局は違うことについて話し合っていたなんてことも、冷静に振り返ってみればそれほど少なくないと思う。

 自分の文章も変わってきた。そのことについて最近ずっと書きたかった。最初はどのようにして書き始めたのか。最初は文章というよりも記録だった。行った場所やしていたことを記録した。必要に迫られてやっていたのではない。誰かに頼まれて始めたわけでもない。報酬が目当てだったことはないし誰かのためにやっていたこともない。そして、どんなご褒美があったとしても始めていたか確信は持てない。自分でただなんとなく始めただけだ。ほとんどのことが他人や周りによって決められていると思って生きている人がいる。意識的にそうしている人もいるし、無意識的にこれはもうどうしようもないと思うことが多い人もいる。自分が記録を始めたことはなんとなくでしかない。今まで続いているのもたまたまで、やってみないとここまで来られるかはわからなかった。明日終わってしまってもそれは何も不思議でもない。けど、人に強制されたり報酬があるからというわけで続くものではないんじゃないかと自分では強く思っている。あくまでも自分のことであって人のために書いているわけでもない。褒められようとか意見を求めようということでもない。最初は本当に記録だった。その日に行った場所を書いていた。その頃はたくさんいろんな場所に足を運んでいたのだろう。進学して、いろんなものに巻き込まれていた。新しいもの、知らないこと。場所だけじゃなく仕事や勉強、人。あらゆるものが新しかった。好きなものもあったし嫌いなものもあった。余裕もあったし好き嫌いで判断する暇もない時もあった。そんな風に生きていたわけだけど、どんな場所に行ったかは記録していた。そうしていればその日何をしていたか思い出すことができるだろうとおそらく考えたのだろう。日記や文章を書かないでいてもその日の時間の使い方がわかる。その場所の名前を書くだけで非常に簡単だ。時間も場所もとらない。どんなに多くの場所を訪れようとも1日には限度があるし数行にしかならない。そう、最初は場所の名前しか書いていなかった。

 それから少し変化が訪れる。場所を繋いでいく。言葉でその空間を補っていく。池袋から新宿に移動する。という表記に変わっていく。人身事故で少々遅れる。なんて細かいところが追加されていったのかもしれない。少しずつ文章が出来上がって文字だけだったものが繋がっていくようになった。朝は寝坊するものの急いで渋谷へ。昼食のエッグベネディクトが美味しかった。といったようにどうでもいいようなことも記録に含まれ始める。とってもとっても短い文章なのだけどいつの間にかそう変化していた。最初は、スペースも気にしていなかった。場所を記すだけならそれほどのスペースもいらなかった。書いているページにも余白が多かったし見やすかった。後でそのページを振り返ることになってもそれほど時間はかからない。当たり前だけど場所が羅列してあるだけだからだ。池袋、渋谷、塾など書いてあってももちろん読み間違えることはないし頭を使う必要もない。時間軸だって上から下に見ていくだけだしそこには乾燥も記されていないし接続詞もなかった。それが変わっていく。短い文章が少しずつ伸びていく。スペースを埋めるようになってくる。与えられたスペースを埋めきるためにこれまであった余裕はなくなっていく。記録されていくことは増えていく。その時に訪れた場所だけではなくその時何をしていたか。何かを食べたとしたらその味はどうだったか。何処かに行ったらその場所から感じたことはなんだったのかが自然と書かれていくようになる。

 それからまた変化が生じる。もちろん最初から最後まで記録というものは目的の一部として存在していると思う。一時期は文章をしっかり読み返していた。それでしか乗り越えられないこともたくさんあっただろう。書く事、そして時間をおいて読み返すことが最善の手段だった時期がある。何をするにしても。その時はどんなことを書いていたのか。場所や感情は記録していた。それに加えて自分の感情をたくさん書き始めた。その時自分が感じていたことを書き続けた。その文章は非常に長かった。出来事と絡めて書いてあることが多いのだけど、感情や考えがほとんど全てを占めていた。きっとその頃は(もちろん行った場所も大事だし、したことも大事でそれが要因や原因ではあるのだけど)自分がどう思っていたのかを記すことが最も大事だった。場所よりも考え、一瞬しかないと思えるようなその時の繊細な気持ち。誰もが見えるもの、誰からもわかるようなものを記録するのではなく自分の内側にあって自分にしかわからないものについて書き続けていたと思う。そして、その期間はとても長く続いていた。場所の記録もそうなんだけど、それよりも自分の感情や経験を記録するようになってきた。それを読み返すことの影響力は信じられないくらい大きかった。自分がとても救われている気がした。

 最近はどうか。最近は考えばかりまた書いている。場所の記録と自分のアイデアを一時期完全に切り離していた。考えは考えだけでそれをいかに表現するかに集中していた。けどまた少し変わって、今では過程を大切にしている。アイデアや感情についてか中心的に書くのだけど、それに影響を与えたものは何かをしっかり記すようにしている。場所でも人でも機会でも。それを含めてどのようにアイデアが生まれたのかをしっかり記している。道標を記すかのように。

 内面も外見も変わっていく。この前皆とあった時興味や関心の対象は常に変わっていくものだと思った。ずっと同じものを好きであったり同じ行動を続けている人は少ないのかもしれない。自分もその一人だと思うのだが、そんなことを皆も思っているのかもしれない。自分としてはそんなに変わっているとは思わないし昔から常に同じだと思う。