Carpe Diem

Think good thought.

文書

 

 「文章を読むだけでその人のことがよくわかるのね」と彼女は言った。「感動しているだけだったらその人はとってもばからしく見えるわ」とも付け加えていた。そんなこと、その文章を書いた相手に向かって直接言うことなんてできないだろうと僕は彼女に伝えようとしたがやめた。それは当たり前のことだし彼女もそんなことは理解していた。だから僕も、その文章を読んでみた。自分と同じような経験をしている人の文章だったのでわかりやすかった。わかりやすかったのはその感覚とありそうなこと。けど、文章に関しては彼女と全く同じ意見というか感想を持った。馬鹿らしいと表現していいのかはわからないけど本当に中身がなかったし感覚的すぎてほとんどのことがわからない。文章だけだったらほとんど何も伝わっていないんじゃないかと思う。時々写真があってそのイメージが読み終わった時に残るぐらいだ。心に残るような表現もざっと見ただけでは一つもなかったしもう一度読みたいと思わなかった。「どちらかというと鬱陶しい文章だ」。気づけば僕の口からもそんな言葉が溢れていた。「どこが、この文章のどこが楽しいのかがわからない」。

 それでも、その文章を読む人の数は多いようだった。しかもその数は僕らの評価からしたらちょっと信じられないくらいに多かった。「あなたの文章の方が好きよ、物語や内容がつまらなくても少なくとも文体は興味深いし言葉のつながりとかが面白い表現があるからまだ耐えられる」。彼女は言った。それは僕にとってはかなり良い方の褒め目言葉だけど他の人にとっては嫌味に聞こえるかもしれない。別に誰に読まれなくても悲しくはないが、彼女が僕の文章にコメントをくれることは嬉しい。なんでこんなにも多くの人が彼の文章を読むのだろう、僕はそのことに対する疑問から離れられなくなった。けど、答えもすぐに出てきた。さっきも感じたようにこれを読んでいる人は決して文章を味わったりしているわけではない。文章というより写真のイメージしか自分には残っていないのだが、その作品の与えてくれるなんとなく感じられる雰囲気に惚れ込んでいるだけではないか。そういうものを好きそうな人なら世の中にはたくさんいる。それを僕自身楽しむことも時々はあるが、あんなにつまらないというか個性のないものを見るのは少し耐え難い。彼の文章を毎日読んでくれと頼まれたとしても絶対に断るだろうなあと思った。

 最大公約数のようなものがある。誰が見てもそれを好きになってしまうようなものが。それとは違って個性というものが存在する。言葉の選び方、音にして読んだときの響き、構成。専門家がこの辺りは詳しいのかもしれないが専門家は所詮専門家だ。個人がある文章や作品に出会う時に感性でいろんなことが見えてくる。なんとなく良いと最初に思うし、そのなんとなくは時間をかけてその作品を見たり読んだりし続けるうちに明確な形として現れる。理解可能で表現可能なものなのだ。その辺を分析して分類して言葉で書き表す能力に優れているのが専門家なのかもしれない。けど、いろんなものを消費して楽しんだりしている人の大半は間違いなくいわゆる普通の人だ。その感性に引っかかるものが何かしらあるはずである。最大公約数的なものになりうるものとなり得ないものがある。全ての人に共通すると言ったらおかしいがそのようなものはある。世界で最も有名なアーティストは誰だろう。The Beatlesでも良いし、あなたの好きなアーティストでも良い。それに関する物語が描かれた時にそれは、多くの人の心に響くきっかけになるだろう。けど、東欧の名前も知らないような国の二流アーティスト似ついて延々と書かれているとしたらそれは難しい。たとえあらゆる言語に翻訳されたとしても人々の心の奥底までは響きにくいだろうし、心の中に入っていくには障壁が高い。有名なアーティストだったらいいわけでもないということは言うまでもないことだが。けど、これもとっても繊細だ。それぞれ可能性としての絶対的な量を持つとともに個性のようなものも持っている。そしてそれは、感性によって弾かれやすい。例えば、音楽は特に障壁の低いものの一つであると思う。タイトルを知っている、リズムを知っているだけでなぜかものすごく短に感じることがある。ある場合においては、極端に言えばその音楽を知らないことで損をしたり阻害されることもあるくらいだ。感性に弾かれたりするのにはそれなりの理由がある。そのもののイメージ。そのものを消費する層に偏りがあったりすると、ある方向からは熱狂的な支持を得ることは可能だが、ある方向からは完全に無視されたりひどい場合はいわれのないようなことで批判されたりし始める。音楽と違ってスポーツなんかどうだろう。例えばサッカー。世界で最も有名なスポーツの一つかもしれない。貧しい国でも豊かな国でも国境を越えてサッカーの人気は高い。けど、統計を取ってみるとサッカーに興味を持つのは男性ばかりだった。サッカーの話が出てくる小説は男性にとても人気があるが女性からしたら興味を失う要素として敬遠されているというイタリアの会社のデータがあった。というのは冗談だが、そのようにあるそうには響き得ないものもある。それでいてもサッカーは最も公約数に近い方のスポーツだ。どんなに優れて感動する愛の物語でも、クリケットやベースボールがいきなり出てきたらちょっと戸惑ってしまう人が多いのではないか。二人はその後オペラを見に行ったのではなく能を見に行ったとなったとして、世界中のどれだけの人がその雰囲気を味わうことができるだろうか。最大公約数を選択することはできる。積極的にそれに頼っている人もいる。誰にもわかるような話しかしない人。そんな人も少なくない。そんな人の中には自分の話や話し方に自信がないから意識的にそう選択している人もいる。そしてもう一つの大きな要素は個性。個性は作られたものであるだろう。もちろん自分で作り出すことも可能なのだが、それは個性とは少し呼び難い。技法といったほうが良いかもしれない。味といって評価されるのかもしれないが多くを知っていたり様々な読み込みをしている人に対してはごまかしはきかない。最大公約数的なものに全力で頼る書き手がいるように、その文章の個性だけを味わい尽くす人もいる。それは、物語の書き方にしっかりと現れてくる。彼はどんなつまらない物語でもうまく、面白く書くことができたと言われている小説家がいるのも納得がいく。これは普段から僕の考えていることの一つで短くまとめて彼女に伝えてみた。「今のあなたの説明はどれくらい最大公約数的なものが含まれていて、どれくらいの人の心を動かすことができるの。そしてあなたの個性はどの辺に現れているのかしら。」と彼女は落ち着いて聞いてきた。それに対して僕は「君の感想が聞きたいよ」と答えただけだった。

 最初に読んだ文章は、最大公約数に全面的に頼っていて個性が全くないし抽象的で全く面白くない文章だったけどそれはわかると彼女に聞いてみたけど、なんとなくわかると言っていた。興味を少し無くしかけているようだった。「なんとなくわかるだけでも僕の話の90%は理解できているよ」というと「それもわかっている」とのこと。「この話にはクリケットやベースボールの話が出てきているから多くの人には響かないよ」僕は答えた。