Carpe Diem

Think good thought.

限り

 

 つい最近観た映画はとても気持ちが良いものだった。80分程でかなり短い映画だったと思う。さっと、あっという間に終わってしまったのだがしつこくなくてすっとする感じで良かった。うまくまとまっていると評価している場合でも立場でもないが感じたことは多かった。限りがあるということを考えさせられたからだ。時間は当たり前だけど無限じゃない。いろんな区切りがあるからこそ面白い。主役が言っていた。年をとることはそんなに悪いことではない。年をとることで時間のありがたみがわかり目の前の瞬間を大事に生きるようになると。若い頃から時間の大切さがわかる人なんてどれくらいいるのだろうか。ほとんどの人は時間の大切さに気付いた時はもう既に遅いなと感じたり死ぬ間際かもしれない。時間が大切だとわかったから周りが変わるわけでもないし自分の意識や感覚がより強烈になるぐらいだろう。

 本当に時間は限られているんだろうな。それは楽しいことでもあり悲しいことでもある。フランスとアメリカで過ごす。互いが違い場所にいると思っていたが実際は一年も同じ場所で過ごしていた。実際は会うことがなかったものの。そんなことは実際の人生でもよくあると思う。それを聞いてひどく混乱したり後悔する人もいるだろうし、笑いながら惜しかったなあと言える人もいる。いろんな区切りがあるからこそ楽しみがある。1年や1週間しかそこにいられない。それは旅行かもしれないし出張かもしれない。短い付き合いだからこそ心を開けることもある。相手の過去のことを知らなくて良いしこれからも気にする必要はない。普段周りの人には言えないような悩みも初対面の人はなんとなくだけど気楽に話したりできるものだ。普段と違う環境に限られた時間いると、普段自分にはできないこともできるようになる。旅の恥はかき捨てとはちょっと違うけど、あまりよくない種類の勇気だって湧いてくるしそれが限りがあることで生まれてくる面白さの一つだ。

 毎回旅先や出張先で普段とは異なることをする。展望台に行ったり知らない人たちと夕飯を食べたり。それ自体は日常の行いに対して特殊な、特別なことに感じられる。けど、その現地での行いというか目的地での行動はいつも同じなのだ。知らない場所ではいつもしないことをいつもしているということで、結局はそれが目的地での通常なのだ。日常の生活に帰ってきて安心する。ちょうどこのようなバランスがあるから人は落ち着けるのかもしれない。ワクワクすることができるのもそのおかげだ。よほどの人を除いて毎日同じ気分が続くというのはない。楽しいことばかり続いたり悲しいことばかりが続いたりだったらそれらに対する捉え方も変わってしまうだろう。毎日楽しいが当たり前になったら楽しいの基準も変化してしまうだろう。つまらない日々があるから楽しい日があるといったらなんかあまり面白くはないけどそういうものなのだろう。

 時間自体はやはり変えられない。変えられるのは自分の意識だけだ。その時間を長くすることも短くすることもできると思う。限りなんてないと思えばそうなるのかもしれない。時間について考えている時間が最も無駄だよと誰かに言われてしまいそうだ。

 限りは偶然だと思う。あらゆるものに限りがなかったら楽しさは生まれない。思い出は生きていく上での燃料だ。その表現には納得するし自分でも思い出がなかったら生きていくのは大変だと思う。過去にしがみついているだけの人は嫌だということはよく聞かれることだ。確かに嫌だ。けど、未来のことだけ考え続けるのもよくわからない。歴史とはまさにその人の個性だと思う。思い出も個性もそれを構成するもの。だから他人の過去を尊敬するかはともかく、内容はさておき、歴史を有するものには一種の価値があると考える。歴史は個性でありそれ以外のもので自分を表現することは非常に難しく思える。未来のことを語り続けたって誰も説得することはできない。そのビジョンを少しでも共有できる人がいるのはそれは、あなたがこれまでの過去で作ってきた歴史や過去がその期待を抱かせるのに十分であるからだ。いつも思うのだけど、過去の思い出に浸っているだけの人も悪くはない。浸れるだけの思い出があるならそれはとっても素敵だし十分ではないかと思う。ないよりは何千倍もましだ。一度も人を愛したことがないよりは、一度だけでも本気で人を愛して失った方がましだ。それを思い出すことで今を楽しむこともできるだろうしこれから生きていくための燃料にもなっていることは明らかだ。素敵な思い出が、思い出すのが嫌な思い出があなたにはいくつあるだろうか。

 思い出は今では手に入らないもの(と考えられるもの)が多い。それが面白いところだ。学生時代、青春。何もかもが楽しかった。実際にその時が人生で初めてということは多かっただろう。たくさんの人に接したり、いろんな場所に行ったり様々なものを見聞きして。その時の興奮や感動は生涯忘れられないものが多い。その時の感覚はほとんどの場合その時しかやってこない。けど、そのことに気づくのは時間がたくさん流れた後の場合が多い。年を取ってから、様々な経験を経て見える世界も唯一のものなのではあるがそのありがたさや価値も上手く評価できない。若いときも年を取ってからも同じように人生で初めてのことばかりのはずだ。だって、そこまで生きてこなかったら分からないことばかりだろう。常に人は変化していくし同じ状態で物事を捉え続けるのにも限界がある。若い頃はなんであんなにもあらゆるものが輝いて見えるのだろうか。それはもう手に入らない気がするからだ。年を取ってからではもう、また外国で暮らすことができないように思えてしまう。だからこそ余計にあの時が懐かしくて恋しくなるのだ。誰かにもうあれ以上愛されることはないんじゃないかと怯えてしまうが実際にそれは、誰かをもうあの時以上に愛することができない自分を憂いているだけかもしれない。限られているのではなくて自分であらゆるものを限定しているのかも。

 限りがあることは嬉しいことでもあり悲しいことだ。本当にし好きだった、同じ人生を歩むはずだったかもしれない人といつか再開したらどうするのだろうか。しかもその時間はほんの小一時間。会いたくて会いたくて仕方なかった。何年も祈って願った上でそれが実現した。その瞬間い貴方ができることは何だろうか。彼女の家族について聞くか。今の恋人について聞くか。仕事でも暮らしでも良い。昔の思い出にたっぷりと浸かっても良い。その再開までの数年間の間に話したいと思っていたことは山ほどあっただろう。毎日見てきた美しい景色かもしれないし彼女に伝えたかった気持ちかもしれない。謝りたいことがたくさんあったかもしれないし褒めたりないことが多すぎたかも。準部もしていたはずだしひょっとしたら練習もしていたかもしれない。その幸せな再開で結局話すことはくだらない世間話かもしれない。一緒に居られることがどんなに幸せか理解できたかも。そしてまた、その時に話せたことは思い出になるし、話そうと思っていたもののできなかったものも思い出となって今後も自分の中に生き続けていく。本当に限られた時間の中で大切な人と一緒にいるチャンスがあるとしてその時間をいかに使うだろうか。その状態に入られていること自体が最も幸せであるということを忘れないように。