Carpe Diem

Think good thought.

書き続けることと変化

 

 書き続けていくことで細かいところは変化していく。言葉遣いだったりその内容だったり。一時期同じことを書き続けたくなる衝動に襲われたこともある。はたまた、気が付いて振り返ってみると同じことを言い換えていただけだと気づくことも少なくない。けど実際、そんな時は言い換えにすらなっていなくて自分でも笑ってしまう。ほとんど同じことをほとんど同じ調子で毎日書いていたりする。それは全く重要なことに見えない場合が多い。そんなことにこだわるのか、何回も表現を変えようと試みているのはわかるがうまくいってないぞと自分を励ましたくなることも。自分の文章でもうまくいったなあと思うこともあれば悲しくなることもある。うまくいかなくて。それはちょっとお袈裟で冗談だが、うまく伝えられていないなと感じることもある。

 けど、どんな時も変わらないことが一つある。これもまた他のことと同じでごく当たり前のこと。そう考えたら当たり前のことしか書いていないような気もしれきたしそれ以外のことは書けるのか、かけているのかなあと思う。その一つのことは、常に文章を書いているときの自分を表しているということだ。その時の文章はその時にしか書けない。その文章が何についてものだかは関係ない。政治でも経済でも自分の恥ずかしいことでも高すぎる理想でも。何を対象にしていても良い。もちろん語っていることは重要でそこがなかったら何も残らないような気もするが、そんなことはない。書いているときの自分が露骨に現れている。むしろ、そこが大切なのではないかと今は思う。いろんな文章を書くことで、トピックや書き方を変えるのも一つのアクセントだが、本質というか自分の状態を見たがっているのかもしれな。自分ばかりは隠せないし、そこを実際あらわそうと小手先の努力をしているのかもしれない。ちなみにこの文章は自分にとってとてもよくできている方だと思う。本質に迫っているというか大事なところをしっかり押さえている。そのように感じる文章はこれまでにいくつかあった。その感覚に出会うことも最も大切なことの一つなのだろう。文章を通じで自分自身の状態に出会う。それを記録する。そしていつか振り返ったときにまた何かを感じるのであろう。こいいう内容の文章は誰かに伝わるのだろうか。少なくとも自分では今しっかり理解できているしこの上なく重要な話だ。

 自分から決して逃げることができないように、どの文章にもそのときの自分がしっかり記録されている。心の様子が。焦っているのか、混乱しているのか、義務として手を動かしている。考えていない。ずっとこのトピックについては考えていたが文章にすると安いものになってしまっている。頑張って書いたもの、妥協したもの。そういうことがありのままに生き生きと記録されている。そこを読んでいたのかもしれない。それは今こうして書くまで気づかなかったことだ。ある種のブレークスルーのようなものかもしれない。今日はこれまでにおそらく一万二千字ほどを書き続けている。初めての経験だがそれほど悪くはない。そしてそれほど楽でもない。今の文章は後々振り返るとまた表情が違っているだろう。一つ想像できることはある。今そうであるように、焦っている。この文章を将来読み返してもその焦りは伝わるのではないだろうか。それは、今ここに焦っている自分がいるから、焦っていたということを思い出すし知っているからということではない。この文章を読んでいるときに文体や勢いからそれが見えてくるのだ。精神状態がきっとありのままに見えるだろう。それがとっても力強く訴えかけてくるだろう。そういう生きた文章はあまり書けないものだろうと思うし良いことだと思う。そう思って考えてみたが読書もそのように行われているのかもしれない。なんというか、深い場所に接すること。作者の感情というか気持ち、どんな状態で書いていたのかというのが見えてくる感じ。実際にそれをいちいち感じていたら疲れるし気持ち悪いとも思うが、そういう作品も確かにある。それとは違って文章や物語に深く吸い込まれて出られなくなってしまうこともある。その時作者というものは本の中から完全に姿を消しており、物語という完全な世界を作り出していると思う。文章というものもとても行き来とした力強いものなのだなあと思った。今初めて気づいたし学んだことだ。素敵な瞬間だ。

 作家は物語を描くごとに魂をすり減らすと誰かが言っていた。そうかもしれない。空っぽになってしまうのもわかるような気がする。個人的にその段階までまだ挑んだことはないからわからないのだが。けど少しでもそこに近づいてみたいし今この瞬間も少しずつ近づいている。そう考えるととっても楽しい。このLIVEという感覚。あるいはDRIVEと誰かが表現していたと思う。何事も続けることでしか見えてこないものというものが存在するがこれもその一つなのだろう。当たり前のことを続けることでしか特別なことにたどり着くことはできない。それは単純な事実であり、皮肉であり救いでもある。

 ある作家は長編作品の最終段階に入ると机の前に座っている時間が毎日長くなっていくと言っていた。どれほど長いのか。14時間以上と彼は言っていた。自分がそれを真似する必要は全くないしその必要性に迫られたことはまだない。想像しただけでもすごいという文章を書こうと思ったが正直想像することができない。そして、想像できたとしてもそれは正確ではないだろうしあくまで想像に過ぎない。自分で体験したことでないと結論を導き出すことも人に説明することもできない。文章は深いなあと思う。14時間、たった1日でも書き続けることができるだろうか。それは誰にでも可能なことなのだろうか。それでいてたんに挑戦する人が少ないという話ではないような気がする。それは才能だ。誰もがそれほど語るものを持っているわけではない。最も辛い種類の肉体労働に勝る負担がそこには存在するかもしれない。それを書いた後は本当にどうなってしまうのだろうか。次の文章が書けなくなるといった不安は襲ってこないのか。体も心も空っぽになってしまうのだろうか。いくら健康で体力がある人でも1日何時間も机の前に座って文章を書くというのは難しいことだと思う。今後技術が発展して口から出た言葉がすぐに文章になったりするかもしれないがそれでも簡単ではないだろう。

 もし、書き続けることや読み続けることでこのような一種のふれあいがあったらそれは幸せなことだろう。その相手は見たこともない、名前を聞いたこともない作家かもしれないし過去の自分かもしれない。その文章の中に動きを見出す。文章や物語自体のものかもしれないしその作品を書いている生身の人間から強く発信されているものかもしれない。もしくは、自分が文章を書き続けることでいつか誰かの何かをドライブする瞬間が訪れるかもしれない。それはあなたかもしれないし私かもしれない。それだけのことを文章に見いだす人もいれば紙の上のインクに過ぎないという人もいる。むしろ、今後は印刷されることすらなくなってしまうのかもしれない。けど、このライブ感覚は将来も失われることはないだろう。文章を書き続ける人がいる限り、そしてそれを読み続ける人がいる限り。常に何かは動き、刺激を与えて誰かが動かされている。そんな劇的な、あるいは素敵な瞬間を求めて。