Carpe Diem

Think good thought.

捨てる

 

 捨てることはそれほど難しくはないと思う。年をとるにつれていろんなものを手放すことに慣れてきた。けど、そこまでのプロセスは決して容易ではなかった。それ自体が困難だったのではなくてそのような考えを得るまでに時間がかかったということだ。自分はそれほどモノを所有することに興味がない。あるとしてもそれは強くない。ほかの人、身近な人を見ていても自分よりミニマムな生活をしている人にほとんど会ったことはない。とっても近い関係にいた人がひどくものを抱えていた人だったから自分のものが相対的に少なく見えるようになってしまったのかもしれない。けど、ものが多すぎてもあまり良いことはないと思うし自分にとっては特にメリットはない。それだけ、ものが溜まるほどの財力がないだけということではない。お金の使い方さえ意識的に選択していればより所有することも可能だったしこれからもしていくだろう。もちろんその予定はないし決してしないと思う。これからもどんどん持ち物を減らしていくつもりだ。

 あと4ヶ月か5ヶ月のうちに自分の持ち物をほとんどすべて処分しようと考えている。ちょうどそれには良いきっかけがその時期にあるので。けどそれは簡単ではないように思える。しなくたって困ることは一つもない。少しは他人に迷惑をかけるかもしれないが規模は極めて小さいし処理も自分が行わなくてもできる要因すでにしてあるのでそれほど心配することはない。

 自分が生活していく上で本当に必要なものはなんだろうか。そう考えたことがある人はそんなに少ないわけではない。考えないというよりも考えるキッカケがないのだと思う。引越しがとてもいいきっかけになる。これまでは4回か5回引越しをしたことがある気がする。子供の頃は自分が持っているものがとても多かった。おもちゃでもなんでも、あらゆるものを保存していた。また、自分で保存しようという意思がなくても自分以外の人によっていわば勝手に保存されていた。だから引っ越しもとてつもなく大変だった記憶がある。幾つもの段ボールに物を詰めていく。これがないと生きていけないというものは実際にはないのかもしれない。引っ越しだったら現地に行ってまた買えばいいだけだから。けど、一つしかないというものはたくさんある。学校や何かの大会でもらった賞状、メダル。初めて描いた絵などは気持ちを揺さぶるし簡単に捨てるわけにはいかないのかもしれない。誰かからもらったプレゼントだってそうだろう。

 年をとって、少しは自分の頭で物事を考えられるようになってから引っ越しをしたのは一回だけだ。その一回で多くのことを体験したし学んだ。ものは少なくていいと知った。海外に1年弱入っていたわけだけどスーツケース一個とボストンバックのみ。向こうにいる間に一回だけ引っ越しの段ボールより小さいぐらいのものをひとつ送ってもらった。ただそれだけで一年間ぐらい過ごすことが可能であった。帰ってくるときはさすがにスーツケースに収まりきらないほどだったが、荷物を送ったりはしなかった。現地で買ったものも少ない。大学の寮で暮らしていた。大学のキャンパスの中にある寮・最初は二人部屋。ベッドが置いてあって机がある。ただそれだけ。クローゼットとドアがあっておしまい。もともと住む環境自体がミニマムだった。ルームメイトが持ってきた小さな冷蔵庫が一つ。あとは巨大な扇風機。夏なのに冷房がなかったのには驚いた。信じられないほど暑かったはずなのだが記憶にはない。テレビはあったのかなかったのか今では忘れてしまった。確かアタような気もするけどいつもコンセントが刺さっていなかった。巨大なパソコンのスクリーンはいつも机の上にあった。それだけだ。寮の地下にはランドリーと小さなスペース。電子レンジは確かなかった。いや、あったかもしれない。あったとしても使えなかったのではないか。巨大な冷蔵庫が一つあったわけだけど使うわけもないし使いたくても使えない。誰かに取られてしまってもそれは当たり前のことだし何かを混入されても気付かなかったら大変なことになる。そんな環境だった。

 後半は一人部屋に移動した。ちょうど半分になっただけ。基本的には変わらない。キットカットを冷やすためにだけ一部を借りていたルームメイトの冷蔵庫も無くなってしまったので部屋には本当にものがなかった。扉を開ける。机とベッド。パソコンが机の上に置いてある。教科書と授業の資料が山のように並んでいる。それくらいだ。現地で買ったものといえば服。季節の移り変わりが激しかった。服に関しても必要最低限のものだけを、しかもやすくなった時だけに買っていた気がする。例えば、ブラックフライデーに。服を買った回数は少ないがいろんなお店を見て回るのは非常に楽しかった。あとは、掃除用具。といってもほうきとちりとり。なんとなく日本らしい雰囲気があるなと一人で思っていた。2日か3日に一回は掃除をしていたと思う。よく活躍してくれた。もう一つだけ常に部屋にあったもの。水。500ミリのペッドボトルが20本か24本か。毎週買って自分の部屋に持ち込んでいた。重くてしょうがなかったけど自力で買わないと生きていけなかった。イケアの巨大な青い袋に入れてキャンパスをでて買いに行った。CVSに。それ以外のものは自分の部屋にはなかった。

 冷蔵庫もテレビもない、冷房もない。そんな部屋でずっと過ごしていた。そしてあの頃はいろんな変化があった。着るものもとっても機能に重点を置いて選択していたし食べ物の選び方にも変な偏りがあった。ある時期はキットカットしか食べなかったと思う。勉強に集中したいためか、節約したいためか甘いものでリラックスをしたかったのかは忘れた。そして後半には携帯電話もなくした。大学内はWiFiが飛んでいたしデジタルデバイスも常に持ち歩いていて特に問題はなかったが電話すら持たなかった。とってもミニマムだった気がする。

 年をとっていくといろんなことに限りがある気がしてくる。実際にあるのだけど。これを持ち続ける意味はあるのか。他に借りたり貸したりでうまく一時的に所有することはできないのか。買うだけが方法ではない。いろんなことを自分で考えるようになった。

 オバマが選挙で買った年だった。その日は大学内でも投票が行われていた。いや、その日じゃなかったのかもしれない。その時は友人の部屋でテレビを見ていた。エンパイアが青く染まったのをよく覚えている。

 帰るときになってたくさんの荷物を処分した。ほとんどはリサイクルに出した。服や電化製品などはそれらを集めるスペースに持っていけば引き取ってくれた。寮に人が入る時、出て行くときのアメリカの光景は異常だ。資本主義とはこういうものかと思った。モノが溢れている。これ以上豊かになることなんてもうできないんじゃないかと思った。表現は選ぶべきだがその光景を10分ほど見ているだけでも本当に吐き気がするほどだった。毎年、年に二、三回も大量の荷物を持ってきては捨てていく。ほとんどが新品でまだまだ使えるのに。そのせいかもしれない。別に人にどうこう言うつもりはないけど、自分でたくさん物を持っていようとは思わない。スーツケース一個以上のものを持っていくことは今後もないだろう。先日ついに、これ以上捨てるものはないんじゃないかというところに初めてたどり着いた。嘘のようだけど、捨てることで初めて手に入るものもある。