Carpe Diem

Think good thought.

歴史は個性

 

 歴史はつまり個性だと思う。これは間違っていない。一つの意見ではあるが。個性は歴史とも表現できる。これを思いついたのはいろんな考えが巡り巡ってのことだが、映画か何かでニューヨークの風景を見ていた時に結論のように頭の中にパッと浮かんできた。歴史は個性なのだ。

 昔、あるバックパッカーと話をしたことがある。世界一周をする人は馬鹿が多いと言っていた。確かにそうかもしれない。自分より面白い話をする人にほとんどであったことがほとんどないとその人は言っていた。その人と自分があったのも海外。その人の話は本当に面白かった。かなり偏った話だった。だからこそ面白かったのかもしれないが。けどその話は、ある程度の考えや経験がないとわからない種類のものだった。もちろんくだらない場面や馬鹿げたことが相当含まれているので、簡単に言って仕舞えば下品な話が多いから何も知らないいわゆるアホな人が聞いても笑える。どんな人でも笑える最大公約数を持っていながら会話はあらゆる示唆に富んでいた。教養がないと太刀打ちできないといったレベルまで話の深さが見て取れた。けど多分、そんなことは気付かない人は全く気づかない。本当にふざけた笑える話だと思って終わりである。そして、その話をした人のことを面白い奴だなあと斜め上から評価し始めるかもしれない。けど、そのバックパッカーが主に話にしていたのは、ネタとなっていたのはその彼の話を聞いて特に何も考えずに笑っているような人たちのことである。もちろん、彼らはそんなことに全く気づかないのだが。

 まとめるとこうなる。馬鹿な人ばかりではないが、ある程度の傾向というものがそこにはある。世界一周したと楽しそうに話している人の職業は似ている。一つ明確なものを書けば話はわかりやすくなるが、想像すればわかると思う。そして、その人たちが(ほとんどが日本の人が多いのだが)世界一周に至るまでのストーリーは驚くほど似ていたりする。そのような傾向はもちろんいろんな世界に行ってもあるし旅に限ったことではないとも言えるが、ある種の偏りについては自分も理解できる。その一つの特徴は何も学ぼうとしないことだ。帰って来る、つまり世界一周をして日本に帰ってきてもてにいれたものは、世界一周をしたと言えることだけ。他の国の言語や文化、あらゆることは全く学んでいないし吸収していない。ただ単にそこを通過してきただけ。莫大な金と時間をつぎ込んで綺麗さっぱり空っぽになって帰ってきてそれを自慢にする。もちろん旅の目標や目的なんて人それぞれだし、否定も肯定もしない。けど、話を聞いていて興味を持てるか持てないかは話していてすぐにわかる。そういった人たちは本当に学んだりしないらしい。自分の話しかしない。大して特別ではないし面白くない話。自分にとって面白かった話を他人にもするし他人が自分と同じ感覚で面白がってくれると思っていたりする。不思議なものだ。

 よく、英語を勉強する意味がわからないと言う子供がいる。将来英語を専門にするつもりはないし英語を話せないからといって困ることはないだろうと。もちろん英語だけじゃなくて義務教育と呼ばれるもので学ばなければならないことは非常に多いのだけど。海外旅行に行って初めて気づくことはたくさんある。それは思ってもみなかったことで自分の想像なんか軽く越えていく。英語ですら、と言ったらフェアでないかもしれないが世界の共通言語と呼ばれているものが通じない場所だってざらにある。それをまず知らない。中国の内部に行けば行くほど、ルールも言語も変わっていく。英語が全く通じなくなる。ワン、ツー、スリー。英語で数字を言ってみても全く伝わらない。その時に泊まる場所や買い物をしていて初めて気づく。これは言語を学ぶ必要があると。身にしみて学ぶだろう。ここで会話が成立しなかったらもしかしたらひどいくらいお金を取られてしまうかもしれない。泊まる場所がないだけで済めば良いかもしれないが、病気になって伝える手段がなかったら本当に死んでしまうのではないかと怯え出す。そういう経験をして初めて全てに意味を見出すほど人生は長くないかもしれないが、本当に必要なものは自分で勝手に身につけるもの出会える。だから、自分が身につけたものはほとんど、自分にとって本当に必要だったもののはずだ。中国語だって英語だって、算数だって国語だって。

 外国語が喋れることはその国の文化や歴史に興味を持っているということであると言われるのを聞いたことがある。その国の言語を話せるというのは、(変な言い方ではあるが)その国に敬意を払っているということである戸いうのも誰かが言っていた。本当にそういう尊敬の気持ちから入った人もいるだろうし、興味関心などの点から学ぶ人もいれば、生死をかけた必要性に追われて学び始める人もいる。北欧なんかでは英語のアニメや本などが当たり前のように翻訳されないらしい。これが当たり前なのだが日本人にとっては少し衝撃だ。ほぼ全ての媒体のものを、最新の状態で手に入れ続けることが少なくとも今まではできている。北欧の人たちは映画やアニメ、雑誌を楽しみたくてそういう人たちは(勝手に)勉強するとその記事は結んでいた。幸か不幸かなんて議論しても無駄かもしれないが日本と北欧には明らかな違いがある。

 そのバックパッカーは非常に教養がある。見識も。常識も備えていたし旅の間は異常な、非常識なこともたくさんしていた。彼は子供の頃から本を読んでいたし海外にも住んでいた。マキャベリ君主論について昔話をしたことがあった気もする。資本主義や社会主義、思想などについても話を聞いてついていくのにやっとなぐらいだった。けど、ふざけた話の中に考えの深さが異常なほど現れていて、本人も聞いている自分もそこを楽しんでいた。彼が言うように、世界を回っている人の中には他の国の言語や文化を知らずに帰ってくる人が多い。興味を元々持っていなかった、自分の足でその場所を訪れても何も習得する必要がなかった、名前の違う国をただ単に通り過ぎてきた。それではまずいというようなことを彼は言っていた気がする。

 他の国、都市の文化や経済、歴史に興味を持てるだろうか。それを事前にものすごく調べ、習得してから旅立つ人もいる。歴史があるだけで価値があると海外経験のある友達が昨日言っていた。長い時間をかけてそこに何を作り出してきたか。どんなところを通り抜け、何を得て何を失ってきたか。それは国や都市だけの話ではない。個人だってそうだ。生まれてから死ぬまでに何を吸収し、失ってきたのか。どんなことを話し、何を楽しみ何に悲しんだ人なのか。それこそ個性であり、個性とはつまり歴史である。そこに興味や関心を持てないで通り過ぎるだけの人。そういう人に敬意が払われることはあるのだろうか。その対象を知ろうと思ったらあらゆることを学び、研究し習得するであろう。そうすることで道のりを知りこれからを考える。違いを知ること。個性を知ること。つまりそれは歴史を知ることである。その歴史が善か悪か、幸か不幸かはさておき、歴史があることには価値がある。双子だってそれぞれの歴史があるのだからそれぞれの個性が存在する。歴史は作っていくことができるのだろうか、それともたまたま費やされた時間で残ったものを個性、歴史というのだろうか。