Carpe Diem

Think good thought.

離れているときにこそ

 

 「離れているときにこそ力になるのが家族だ」。この言葉を初めて聞いたときは驚いた。当たり前な、使い古されたような言葉のような気もしたがそれまでに一度も耳にしたことはなかった。その時の自分の環境や状況を踏まえた上でしっかりとこの言葉を受け止めて見たときに感じることは多かった。確かにその通りだと思った。そして思ったのはもう少し広くして「離れていても力になる人が本当に大切な人だ」ということを考えた。考えたというか経験からそのような言葉が生まれてきた。

 今となっては一つの場所に留まっていることが得意ではないし嫌いだが、昔からある環境を一定期間離れるという経験は少なかった。一回大きな引っ越しはしたものの、ほとんどずっと同じ家族の中で暮らしてきたし住んでいる場所も変わらないことが多かった。時々引っ越したことがないという人に出会うけど、それは本当にすごいことだと思う。その人生ってどのようなものだろうと考えてみるけど想像がつかない。あまり、想像もしたくない。同じ地域にいても家が変わったり短距離の引っ越しはしたことがあるという人もいるが、同じ場所で20年間暮らしていくというのはどういうことなのだろうか。それでも十分なくらい、いやなほどに変化は訪れるのだろうか。

 ゲゼルシャフトゲマインシャフト。大学受験の時に現代文ヶ国語かは知らないけどこれ他の言葉に初めて出会ったと思う。意味はわかるのだけど、(それはもちろん、言葉で書いてある意味を読むだけだから)感覚的に理解することはいまいちできなかった。ずっと同じ場所で自分と関わりが元々あった人とともに生き続ける人。ある目的を持って集まった人々が生きていく社会。相当の違いがそこにはあるのではないか。昨日また本を読んでいてゲゼルシャフトという言葉に出会った。

 何かを手放したことがある人とない人。与えられたものだけでうまくやっていくことができる人がいれば変化がない限り自分も行動も起こせない人もいる。そして、特に自分が大切にしている環境、もの、人と離れたときに感じることは多いだろう。そして、それが初めてだったらなおさら強烈な経験をするのではないか。人の人生は人の数だけ異なる。生まれてから母親が仕事を辞めて育児につきっきりになる人もいる。保育園、幼稚園。自分に関わる人が増え続けていく。自分の親に育てられない人だって世界には相当数存在するのだ。それが良いとか悪いとかではなく事実として。小学校。そこはインターナショナルスクールかもしれないし私立の限られた人だけが入る場所かもしれない。お金がありすぎる人も子供も、お金がなさすぎる家庭の子供も寮に入るということはある。田舎の周りに何もない学校もあればコンクリートばかりで土や緑を見ることができない学校に行く人もいる。ずっと親元で、実家で暮らしていて初めて家を出る人。その時彼ら彼女らはもはや子供と呼ぶことはできないだろう。子供の頃か、大人の頃か。自分の意思で家を出て行く人もいるし追い出される人も。きっかけは何であれ、ほとんどすべての人が一回は自分が馴染んでいた環境から飛び出す機会がくる。その環境の変化の規模も人々の捉え方の違いによっている。ある人にとっては教室がその全てだろう。自分の家では親が支えてくれる。必要なものは準備してくれるし集団が迫ってくることもない。迷惑をかけても怒られないし人から命令されることなんてない。そんな子が学校に行って他の子供達と一つの教室で生きていくことはこの上ない脅威かもしれない。大げさではない。そのクラスにはもちろん、やっと親と離れ離れになって生き生きと自分の興味関心に集中できると感じている子もいる。不思議な世の中だ。

 大人になっていく。子供時代が終わるということ。そのきっかけは中学や高校、遅くても大学への進学が多いだろう。どんどん進んでいく、歳をとっていくにつれて行動範囲や活動範囲は一般的には拡大していく。自分の住んで居る市の小学校、県の中学校、私立の高校。私立の大学に行く際は日本中全ての場所を選択することもできるし、海外の大学に行くことだって今の時代では珍しいことでもないし簡単なことの一つになりつつある。大人になるにつれ、個人的にも社会的にも個人が出来ることは増えていく。これまで家族に頼って暮らしていくしか選択肢がなかった子供も自分で働いて、家賃や授業料を払うことが可能となる。それゆえに自ら多様な選択肢を持つ。自由がゆえに行動範囲が広がる。けど全てがそのようなケースとは言えない。大人になり就職する。もちろん自分の意思でその企業を選択したわけだが何もかもが思い通りというわけではない。地方に飛ばされてしまう。やむを得ない。そういう機会を持って初めて、自分が心地よいと感じていた馴染みのある環境を飛び出していく人もいるしそれはおかしな話でもない。当たり前だが、恥じるべきことでもない。

 人間関係も、過去の記憶も消し去ろうといってもうまくいかない。思った以上にうまくいかない。何かのきっかけが必ず訪れる。学生が住民票を親に送ってもらうように、どれだけ嫌いでも家族を介さないとできないこともあったりする。それは、誰かの死もしれないし、誕生や結びつきかもしれない。自分の意思で出て行こうが、追い出されようがある種のつながりというものはどこまでいってもなくならないものなのだ。距離に全く関係なく、ある場合には離れていれば離れているほど絆が強くなることもある。自分はいらないと思っていても、実家から野菜が送られてくる。いくら返事をしなくたってそれは毎年続けられる。

 一人で、海外に住んでいるとする。今ではもう自分の意思できたのかさえ忘れてしまった。周りには自分の故郷を知っている人は一人もいない。自分の母語を知っている人もいないしなんだか寂しい。仕事だって、現地の友人とだってうまくやっているのだけど何かが足りない気がする。そんな時に誰を、何を思い出すだろうか。故郷にいる家族か、懐かしく思い出す自分が住んでいた街か。いつもは思わないのだけど、この空は繋がっていて、海も繋がっていて同じ星の下でみんな頑張っているんなだなあと感慨深くなったりする。

 別れてから彼の大切さがみにしみてわかった。なんていう話はよく聞く。それでまた仲良くなる人たちもいるし、それでいても他の道を進んでいく人もいる。近すぎるあらこそ見えることもあるし遠くにいなければわからないこともある。基本的には、距離が離れれば離れるだけ関係が薄くなってしまう気がする。あくまでもイメージの話なのだけど。けど、もう信じられないくらい離れた後でもものすごく自信や勇気を与えてくれたりあったかい気持ちをもたらしてくれる人がいることにいつか気づくはずである。その人は必ずいる。友人かもしれないし恋人かもしれないし家族かもしれない。そればっかりは離れてみないとわからないし、離れて見ることの良い点の一つはそこにあるのかもしれない。離れているからこそ、というよりも離れているときもなおつながりを感じる人。そういう人を生きているうちにしっかり大切にしなければならないと感じる。もちろん近くの人も大切にするけど。自分が一番大切にするべき人は誰なのだろうか。離れているときこそ大事なのは誰だろうか。そんな人に、一人でも良いから出会ったことがあるだろうか。