Carpe Diem

Think good thought.

食べていくために

 

 水族館に行った。十年ぶりぐらいに動物のショーを見た。開演時間も近かったのでショールームに入ってみた。イルカとアシカのショーだった気がする。子供の頃なんども見たのだろうが記憶は特にない。全くと言っていいほど覚えていない。上に吊るしてあるボールを見て、あそこめがけてジャンプするのかというくらいにしか想像できない。800人収容というその部屋。時間ぎりぎりで入っても問題ないだろうと思っていたがそんなこともなかった。10分前にはほぼ満員。立ち見の人もたくさんいた。あとで次のショーも確認してみたが場所取りをする親たちが30分以上前から並んでいたので驚いた。前の席は水もかかるので子供達にとっては最高の席なのだ。水族館にはいろんな人がいる。旅行に行くといろんな階層、階級の人に出会うという言葉があるけどその通りで普段は合わないような人たちともたくさんあった。幼稚園児、様々な施設から来た人、お年寄り。普段会社勤めだったり学校に行っているだけなら確実に出会わないたくさんの人たちがそこにいた。

 久しぶりにショーを見た。すごいと思った。動物の運動能力に驚かされた。泳ぐのも早いしジャンプもしっかりできる。そんなに早く動けるのか、そんなに高く覚えるのかと驚いたしそもそもその能力はどこでどうやって生かされていたのだろうかなんて変なことも考え始めた。人間が技を教えている。表向きというか、事実というか、そういう決まりというか見方がある。それは多分合っているのだと思う。技は人間が教えた。それはどうなのだろう。イルカやアシカの身体能力を最大限活かしていると言えるのだろうか。それは謎だ。専門家に聞いてみないとわからないかもしれない。専門家といってもなんの専門家に尋ねれば良いかはわからないが。その動物が本来持っている力を出し切る。その動物の持っている能力を引き延ばす、限界を超えていく。果たしてそれすらも正しいことか望ましいことかはわからないがそういうものが人間の社会でも望まれている気がする。けど目的はそこではない。人を喜ばせることだ。これはもちろん人間の目的なのだが。だから、人間を喜ばせるためのプログラムを作る。それに合わせて動物に技を教える。結果人間が喜ぶ。それで目標ガタッせされるのだろう。だから、その動物たちの身体能力とかは最も早く動く、高く飛ぶとかじゃなくていかに人間が喜ぶプログラムに適応するかどうかで評価される(のではないだろうか)。だから、そのプログラムにとってぴったりの能力。というより適応力。適応といってもそれは進化かもしれないし退化かもしれない。そんなこと自体どうでも良い可能性も高いが。高く飛ぶことを求められた場合は、アシカは今までできた高さ以上のものを求められるかもしれない。それがアシカにとって成長というか進化なのかは誰が決めるのだろう。もともと野生という表現もおかしいが、人間と関わりのないアシカはどれくらいジャンプできてどれくらい速く泳げるのか考える人は少ないだろうし知らないだろう。ひょっとしたらショーで人間が喜んでいる動物の行動は野生の動物の運動能力と比較して67%程度のものでしかないかもしれない。もしくは115%。どちらの方が驚くだろうか。身体能力の高いアシカはアシカ界でも人気があったり生きていく上で都合が良いのだろうか。もしくは、適応することに最大の意味があるのだろうか。

 いるかも頭の良い動物だとよく言われる。人間が頭の良い動物かなんて知らないし誰がそれをどう決めるかなんてもっと知らない。

 人間の目的や評価とは別に、アシカの目的や考えはなんなのだろうか。見ていて思ったのは信じられないほど餌をあげるということ。喜んでいるのか、空腹が満たされているのかは聞いてみないとわからないし聞いてみてもどう答えてくれるか知らないけど気になる。ショーでいい演技をしないと決して餌を食べられないのではないかと思うぐらいの食べっぷりである。普段は餌なんかもらっていないのだろうかなんて勝手に心配してしまった。しっかりカロリーや量も調整されているということも知ったがそれにしても偏りがあるなあと感じた。

 アシカやイルカの目的はどこにあるのだろう。決して一つだとは思えない。人間にすべて従えるという考えもおかしいだろう。必死に彼らも生きているのだろうか。目的がもし、食べることだとしたらそれは苦しいことなのか、食べるためなら何をしても当たり前のことだし苦労には入らないのかもしれない。想像するしかないのだが、彼らにとっての一番の目的はなんなのだろう。やはり生きていくことでつまりそれは食べるということになるのだろうか。だとしたら、一回一回の演技や行動の後の餌のために必死にやっているのだろうか。それともパブロフの犬のように餌を見ている限り何かをせずにはいられなくなってしまっている状態なのか。果てしなく本能に従っているのか、合理的な選択や判断というか生きていくために最も都合のいい選択をしているということになるのだろうか。あんなに餌を食べさせられてかわいそう。いっぱいご褒美をもらえてよかったね。賢い動物だ。人間も技を教えるのはうまいな。いろんなことを感じる人がいるしそんなことが一秒も頭をよぎらない人の方が多いかもしれない。

 人間とアシカやイルカをうまく重ねてみたいのだけどあまりうまくいかない。どちらも最終的な、もしくは最も本質的な目標は生きることかもしれない。つまり食べること。食べるために働いていると言って悲しい印象を受ける人もいる。それを誇りに感じる人がいるのと同じくらい。食べるために自分で仕事を生み出す人もいる。人からの餌を待っているのではなくて自ら道を進んでいく人。それはアシカやイルカに当てはめたらなんなのだろうか。彼らにもそのようなことができるのだろうか。人間をプラスαで喜ばせれば餌が増えること以上に良いことが起こるのか。アシカたちはご褒美が増えれば増えるだけ技も増えるし技術も向上していくのだろうか。つまり、頑張りに応じて食べる量も増えていくこと。しっかり生きていくこともできるし長生きもできる。そんなサイクルが存在するのだろうか。人間はどうだろう。人間もそうなのかもしれない。良い結果を出す。誰かを喜ばせればお金や食べ物は増えてより長生きできる。そんなに単純かと言われて反論はできないが基本的にはそうなのだろう。もし、餌が増えると知っていたら人は頑張り続けるだろうか。イルカにもアシカにも、人間にも個性はあったり生きている目的は異なるかもしれない。

 人間だって、食べるために、餌を食べるために生きている。そう書くとなんとなく暗いという人がいそうだ。けどそんなことないんじゃないか。食べてしっかり生きていくことがえきる環境で働こうとする人は実際どれほどいるだろうか。そして本来、食べるため以外に働いたり活動しようとした人なんていたのだろうか。餌を待って、餌を求めて行動している動物や人はバカなのか、単純なのか、愚かなのか尊くて優れているのか。そんなこと関係なくてただ単に生物としての当たり前の行動があるだけなのかもしれない。

 食べることは生きるためにどれだけ大切なことだろうか。なんのために働いているのか。そして他人を批判したりバカにしている暇はあるのか。自分がそんなに優れているのか。自分は餌をあげるほうなのか?