Carpe Diem

Think good thought.

立場、地位

 

 立場。立場とは相対的なものであるかもしれない。人から規定されることもあるだろう。ある時から人はそれを自分で見極めて生きていくようになる。全ての人がそうなるわけではないが。そうできるようになった後も他人がいないと自分の位置がよく掴めない人もいる。自分で考えることを放棄してしまう人もいるし、否が応でも早い段階から自分の立場を考えざるを得ない人もいる。

 閉鎖的な空間と、解放された空間。今日もどこかの消防署でいじめがあったらしい。プロレスの技を後輩にかけ続けたとのこと。いろんないじめを受けた人がいっぱいいる。体に障害を残すこともあるし、見えない形で心が傷つくこともある。なんでそうなるのだろう。わからないようですぐに分かる話なのかもしれない。自分でも、いろんな場所に所属してきたはずだ。義務教育というものが存在する国はどれくらいだろうか。教育を受けたくないという人が世界一多い国はどこだろうか。解放された空間とは何か。人が集まる。集まらなくてもいい。それは意志によるもので、ちょうど義務と反対側のもののように思える。義務教育、義務。それは人に何かを強要すると表現して良いのだろうか。嫌な人も、その意思がない人も参加しなければならない。それはルールでありその場所にいることが求められる。いなければならないのだ。では、逆はどうだろう。解放された空間。そこに集まらなければいけないという法律や義務はない。それでも人は集まる。なぜ集まるのだろうか。集まらなければならないというよりは集まることによってメリットがあるからだ。集まることは手段である。例えば効率を上げる、利便性をあげる。同じような目的を持っている。同じような成果を求めている。小学校は義務教育で、誰もが参加すべき場所である。逃れられない閉ざされた空間と誰かが言っていたような気がする。はたまた、教習所はどうだろうか。自動車を運転したいなら免許を取得する必要はある。けど、車を運転しなければいけないという法律はないし、高いお金を払って免許を取りたい人が取ればいいわけだし同じ目的を持った人しか集まっていない。そこは開かれた空間と言ってもいいのではないか。

 学校ではいじめがある。絶対と言っていいくらいある。教習所でよういうことは少ない。あまり聞いたことはないし自分で目撃したこともない。同じ集団にもかかわらず。空間や教室、仕組みや制度も似ているのになぜここまで違うのだろうか。しかも、深刻な種類の違いだ。そこには人の命がかかっていることもある。なぜ学校に行く必要があるのか。あらゆる可能性を広げるため、生きていくのに必要な知識や技術を取得するため。それなのになぜそこまで苦しみが生まれるのか。友人関係にも立場が生まれる。地位と言っていいかもしれない。誰かが仕切ってメリットを得るし、その分傷つく人がいるのが当たり前なのかもしれない。そうすることでしっかりとその閉ざされた空間は運営されていく。閉ざされた空間からは簡単に逃げ出すことができない。義務であったり、住んでいる場所であったり。では、解放されている空間で立場が存在するとどうだろうか。そこには何かメリットがあるのか。そもそも、わざわざ絡む必要はないのかもしれない。最低限でしかグループになる機会はないし、避けようとすればずっと個人で目的を達成することもある程度可能だ。けど、学校ではそれがうまくいかない。教習所ではなぜいじめがあまり起こらないのだろう。そもそも、知らない人が多い場所では下手に人に攻撃を加えたり人を判断することができないのではないか。相手のことをよく知らないと怖さも生じる。けど、学校だってそうだ。最初は何も知らない。学校の期間が長すぎるのが問題なのだろうか。

 いろんな社会が存在する。格差の話。日本と比べてアメリカの格差はものすごい。今日も最新のデータが出ていたが、日本もまだまだ経済的格差が少ない方だと言わざるを得ない。かつて一億総中流と言われた国。そこにはどんな立場や地位が存在していたのだろうか。それは幻想だったのか、厳しい現実だったのか。人は望んでそうなったのか、社会が強制的にそうしていたのか。

 多様性がある社会の多様性がこの上ないくらいに豊かなぐらい、ものすごく多様性のない社会も存在するのだろう。それを均一性と呼ぶのかはわからないが。

 生まれた瞬間に、自分の立場や地位がはっきりわかってしまう場所がある。住んでいる場所、親の収入。家庭の状況やその地域の制度、税金。近所の人。ロールモデルの存在。それは豊かさかもしれないし貧しさかもしれない。豊かで苦しみ続ける人もいるし貧しさから逃げくれずもがく人もいる。その人たちは生まれた時から自分の立場というものをはっきりと理解している。このままここで成長したら自分がどうなっていくのかがよくわかっている。それが心地よいものである人もいるし耐えられない人もいる。ものすごく年齢が低いにもかかわらず自分が世界でどんな位置にいるのかはっきり気づいてしまう人もいる。そして、全く自分の立場や地位、位置がわからない人も存在する。もし本当に一億が総中流だとしたらどうなるのだろうか。その子供達の将来は。周りの人たちも、誰もが同じような生活をしている。どこに行っても同じような制度、同じような悩み。成功するかもしれないし失敗するかもしれない。けど、みんなが同じだと自分の立場がわからない。どこからスタートしてどこにたどり着くかイメージを持てない。大人になってやっと自分がどんな場所にいたか気づいてこれから行きたい道やもうたどり着くことが不可能になったゴールを知るのかもしれない。

 どちらが良いのだろうか。豊かでも貧しくても。自分の立場が分かった方が良いのか。わからないまま、考える必要もないまま生きていくのが良いのか。それは環境によるものだというかもしれない。あなたが選ぶものではなくて、与えられるものだと。しかし、与えられたものに満足する人と満足しない人は同じ数いるはずだ。どちらでもいい人を含めるとちょうど三つに別れるくらいかもしれない。だから、たとえ皆が同じような環境にいたとしても自分の立場や地位を作り出す人もいる。基本的にすべてのものが同じままでいることは難しい。早くに自分の立場、可能性、限界を知って動き始める人もいれば積極的に諦める人もいる。人に規定されることが当たり前でそうじゃないと満足できない人。立場なんかは人と比べるものではないと強く主張し、自分の道を行くもの。

 そもそも、立場や地位なんて存在するのだろうか。社会が存在する限り、複数の人が集まる限りそれは避けられないものかもしれない。また、そういう状況でできざるを得ないものの名前が立場や地位といったものかもしれない。そしてそれは、他人との関わりを通さなければ存在しないものではあるが非常に個人的なものだ。ある人にとっては人生の中で最も気にかけることであり、ある人にとっては空気のようなものかもしれない。当たり前とも取れるし、目に見えないもの、あると気づかないものとも取れる。

 今あなたは、どんな立場にいるのだろうか。誰と比べてどんな地位にいるのか。その環境や社会から抜け出すことはできるのか、新しいものを作り出すことは可能なのか。立場や地位が存在しない場所は社会や環境と言えないのかもしれない。