Carpe Diem

Think good thought.

やわらかい風

 

 柔らかい風というものは存在するのだろうか。存在すると思う。硬い風について僕はよく知らないが、柔らかい風についてなら上手く話すことができるような気がする。けど、漢字で書くのはちょっと違う気がする。あくまでもそれは、やわらかい風なのだ。時に文章を書くことが難しくなってしまうときがある。長い間続けている習慣なのに、今日はうまく腕が動かない。考えはあるしアイデアも浮かぶ、けどタイトルで止まってしまう。そんな時はどうすればいいのか。単純に過去のことを思い出して書いて見れば良い。未来のことを書くというのは語弊がありそうだけど、過去のことならかけそうだ。けど、過去のことを書くことだって未来のことを書くのと同じくらいあやふやなものを書いているのかもしれない。未来であろうが過去であろうが、まして今のことでさえ正確に書くことはできないのではないか。そういうことは横に置いておく。楽しかった話や素敵な話の方がこういう時は描きやすい。胸に浮かぶ素敵な瞬間というものを捉えて言葉にしていく。そうすればどこまでも文章は伸びていくだろう。長いトンネルからも抜け出すことができる。序章だけで何ページだって書くこともできるのだ。今は秋。外を散歩すると冷たい風が吹いている。もう冬といっても良いかもしれない。去年の秋や冬はこんなに寒かったのだろうか。空気が冷たい。重い気はしないが肌には突き刺さってくる。朝晩は少し耐えられないくらいの寒さ。まだ体が季節に、その季節の風に順応していないからだ。そんな季節にやわらかい風の話をしよう。

季節は夏。けどそこには二つの季節があった。一つは夏がこれから始まるというところで、もう一つの夏は過ぎ去ろうとしていた。どちらもこれからというところで実は同じ範囲にいたのかもしれない。その頭と尻尾の部分で微妙に夏を共有していたのだろう。その夏、僕はアメリカに向かった。初めてのことではない。何回目だろう、おそらく3回目だった。しかしながら西海岸ではなくて初めてアメリカ東部に訪れたのはこの夏だ。いずれもアメリカを訪れたのは夏だった。正確に言えば、完全に夏の終わりだろう。もちろん東と西では季節の流れ方も異なるのだが。初めてありかの土を踏んだのはおそらくユタ州だったと思う。ソルトレイクシティ。空が高かった。とてつもなく高かったと言ったら大げさに聞こえるだろうが気分も高まっていたせいか本当にそのように感じた。どこまでも広がる青空と張り詰めたような空気。ありのままに空気があるので(当たり前で、何を言っているかわからないが)そこに空気があるのかわからないくらい澄んだ空気だった。気持ちの良い天気とおいしい空気、そんな感じだった。そこからラスベガスへ。日中は40度を超えていたと記憶している。乾燥していたものの喉がカラカラになるというまではいかなかった。二回目も西海岸。その時は自然を満喫した。カナダへ向けて何百キロかドライブをしていた。ここで死んだとしても誰も気づかないと思える場所になんども入っていった。いろんなコースを歩き、雪の上、川の中、山の上を歩き続けた。ひどく空気が乾燥していた場所ではあっという間に喉が乾いてしまった。空気が美味しかったのを覚えている。そもそも人なんてほとんど住んでいない場所ばかり。アメリカの自然は本当に雄大だ。季節が良かったせいか毎日晴れていた。どこまでも澄んだ青空。気持ちのいい雲。こんなに素敵な旅をしていた。けど、その時覚えているのは景色ばかり。主に自然の風景。山、川、空。これまでの人生では見たことのない規模のものを二週間見続けていた。信じられないほど素敵な景色だった。風に関しては覚えていない。なぜだろう。とき気持ちの良い風も吹いたのだろうが記憶には結びつかなかった。とっても素敵な空気がそこにはあったが、素敵な風は吹かなかったのかもしれない。

 風には動きがある気がする。色々な出来事にはきっかけがあるように。空気を作り出すことはできない。けど、息を吹けば風を作り出すことはできる。風が吹かない場所でも自分が走れば向かい風のようなものを感じられるかもしれない。風も、正確にはよく知らないけど作り出せるものや現象の一つではないだろうか。少なくともそう考えたほうが楽しいし少しはロマンチックだろうと思う。

 今日、部屋の用事をしていた。これ以上捨てるものはないと気づいた。それくらい自分のものを片付けてしまったのだ。これは非常に良いことだと思う。どれだけたっても捨てられないものがある。そしてそれを見つけるたびに何度も時間をかけて読んでしまう。手紙だ。親からか、友達からか、恋人からか。先輩からのものもあるだろうし後輩からのものも。誕生日だったかもしれないし、記念日だったかもしれない。その人と自分が出会った時というのは中もしれないが別れた時にもらったものは幾つかあった。手紙ばっかりはさすがに捨てられない。絶対に捨てる必要がないと思う。お金を払ってももらえるものではない。中にはアルバムもあった。手紙は、その瞬間を閉じ込める。だからこそ素敵なのだろう。時を経ても全く色あせない。その輝きや味は深みを増していくし、それは続いていく。そんな時に風のことを思い出した。

 やわらかいかぜ。この言葉は昔から知っていた。知っていたというよりも聞いたことがあった。そのようなタイトルの曲も存在していたと思う。そしてその曲を、当時の僕は聞いていた。8月の半ば。日本はまだ夏の始まりといった感じだった。とても暑かった。出発の前の日の雲をよく覚えている。それは夏にしか見られない種類のもので空に長い間漂っていた。そこからワシントンD.Cに向かう。列車でニューヨークへ。初日というか、ついた瞬間は雨が降っていた。夏のスコールのようなもので驚いたし、初めて僕が見たニューヨークの風景はタクシーの内側から窓を通してみたものだ。窓にはたくさんの水滴が付いていた。黄色いタクシー、沢山の人、白と茶色の中間色のような壁を持つ高層ビル。ニューヨークはもう秋へ向かっていた。しかしながらまだ夏であったし日中は肌がこんがり焼けるほど暑かった。

 ホテルに、中庭があった。客室は何百もあったので相当の人が泊まっていたと思う。中庭はそれほど広くない。木が一本真ん中に生えている。日陰がちょうどできるぐらいに。そして幾つかのテーブルと幾つかの椅子。それほど広くないスペースに適度に置かれている。その時は一人で座っていた僕と、男の二人組しかいなかった。彼らは朝の気だるさのようなものに包まれたままだった。微妙な距離。お互い気にならなそうで気になるような距離が僕と彼らの間にはあった。

 僕は日本にいるある人と連絡を取っていた。ワイファイがあるなんて素晴らしい時代だなあと思っていた。そしていつも通りiPodで音楽を聴いていた。その時に流れていたはずの曲がやわらかいかぜ。確かに流れていたはずだ。太陽の光は優しく反射して広がり続けていた。緑が美しく建物の白い壁に反射している。僕の体は半分だけ日陰の中にいる。その時はお互いのことについて話をしていた。その時だ、やわらかいかぜがふいたのは。信じられないくらい素敵な風だった。けど、それ以外に名前のつけようがなかった。その時の感覚のこともその相手に話した。それ以来、そのような風は体験していない。うまく書けなかったのでまたいつか詳しく書こう。やわらかいかぜについて。