Carpe Diem

Think good thought.

感情の話

 

 感情を持つべきなのかというのは少し不思議な問いだ。間違った問いかもしれない。グッドクエスチョンと言われるかもしれない。それはつまり答えにくい話だということだ。

 感情は自分でコントロールできるのか、しなければいけないものなのか。そう思ったことがある。どんな感情も自分でコントロールできると言える。感情とは出来事とは完全に切り離されたもので、自分の出来事に対する反応だと思っている人がいる。不安も焦りも喜びも悲しみも、自分自身で作り出しているのだ、そしてそこには意志というものがいつも介在している。そしてある時には、感情というものはもはやコントロールされなければならならないものであるという人もいる。

 つり橋を渡っていた。それは日本一の吊り橋と言われるもので高さも相当あるし向こう岸まで300メートル程ある。一度に渡る人の数の目安が20だ。これを多いと考えるか少ないと考えるのはあなた次第。多くの観光客が訪れる場所でその日は風が強かった。渡るときになって非常に弱いものの雨も降ってきた。自分はどんな橋なのだろうと興味津々だった。しかし橋を渡りきって全く面白くなかったことに気づいた。というか。ある出来事によって全く面白くなくなってしまったのだ。前を歩く人はおばあさんだった。家族で来ていて一人の小さな孫までいた。おばあさんはその一番後ろを歩いていた。普通に歩く時でも腰が曲がっているのであろう。スピードはそこまで遅くないが慎重になっていたせいか軽く渋滞ができるくらい遅く歩いていた。風が吹いた時には本当に倒れてしまうんじゃないかと思った。家族は特に心配していなかったので信頼はされていたというか体は丈夫であるらしい。橋はとっても揺れた。中心は木でできていたし外側は助けて下の川が見下ろせる。そして橋に近づくにつれて不規則な揺れが襲ってくる。若者でも手摺を持たないのは少し不安になってしまうかもしれないくらいに。何人かの若い女性は途中で渡るのをやめて半分に満たないうちに帰ってしまった。そのおばあさんは、とてもしゃべっていた。やれやれ、と思ってしまうくらいに。100人いたら80人は実際にやれやれと声を出していたと思う。何について話していたか。自分が今る状況についてではなくて外部の環境についてガタガタ言っていた。ほとんどは叫びのようなもの。あー、危ない、ちょっと。限りなく一人で話し続けていた。誰も助けてくれなかったからかもしれない。大丈夫そうであったり助けは直接求められなかったから困っていたのかわからない。気を紛らわそうとしていたのか、その状況を存分に楽しんでいたのか文句を言っていたのかよくわからなかった。揺れる、揺れる、危ない。風が強すぎるんじゃないか。(誰を、何を呼んでいるのかはわからないが)ちょっと、ちょっと。誰かがこの橋を揺らしてるのよ、わざと、ジャンプでもしてるんじゃないの、これおかしいわよ、誰かが揺らしているのよああ怖い。このような内容を何回も繰り返していた。本当によく繰り返せるものだなあと感心した。楽しんでいるというよりは見たもめ含めて嘆いているような感じだった。この時学んだことというか感じたことは感情も自分で作り出さないといけないということ。つり橋という高い場所にいる。日常とは異なる。風が強い、危険だ。誰かがわざと揺らしているのかもしれない、本当にここは危ない場所だ。いろんな原因や環境に自分で意味をつけて分析して、そこに自分の気持ちを重ねていく。そうしないといけないし、自然とそうしているのかと思った。同じ橋を歩いている何人もの人。おばあさんおように楽しんでいる人もいれば普通の橋を渡るのと何も変わらずに歩いている人も多い。感情とはやはり作り出さなければならないのかと少し悲しくなった。過剰なような気がして。自然に楽しめたらいいと思ったし、周りの人の感情に影響するくらい喚かなくてもいいんじゃないかなとも思ったりした。見ている景色は同じでも、楽しくも悲しくもなる。何も感じないようにいることだって可能だ。わざわざ楽しまないといけないのか。恐怖というのも自然に感じるものかと思っていたが自分で作り出すものかとがっかりした。自分で雰囲気や環境を作って感情を動かしていくこと。つり橋の上のおばあちゃんも世界チャンピオンに挑戦するボクシング選手も舞台は違えどしていることはさほど変わらないじゃないかと思った。

 もう一方、感情とは自分でコントロールできるものではないという見方もできる。どうにもならないもの、自分ではうまくいかないものをそう呼びたがる人もいる。例えば、映画。ある年を境に、おそらく喪失の経験を境にすぐ涙が出るようになってしまった人がいる。涙が流れる。そしてそれを止めることはできない。もちろん実際に止めることは可能だがとめどなく流れる涙というのを知らなかったり体験していない人はいないだろう。自分が経験してきたこと。特に辛いことや苦しいことを乗り越えた時の話、そして喜びを得たときの気持ちを思い出すと涙が止まらない。見たような境遇にいる人の話を見ると体から力が抜けてどうしようもなくなってしまう。そういう際感情はどうなっているのだろうか。プロのスポーツ選手のようにメンタル面を調整しているという意識はない。むしろその真逆で、この涙の流れはものすごく自然なもののように感じられる。とっても無防備なのだ。プロは食事を、音楽を、練習メニューや環境を変えコーチをつけてまで自分を追い込んでいく。そこでどんどん強くなっていく気持ちや感情は本番にこの上ないくらいぐらいの力を発揮する。けど、そんなこととこの涙は全く関係がない。それは帰り道でたまたま起こることかもしれない。眠れなくて仕方なくつけたテレビに強く心を動かされてしまうこともある。そう、心を動かそうという動きと真逆だ、心が動かされてしまうのだ。そしてこれは、真逆であるだけでもない。プロのように最後の最後まで戦略を持って感情の操作に本腰を入れて行ったとしてもあるふとしたきっかけでそれは壊れてしまう可能性を持っている。どうしようもないと言ったらそこまでだし安っぽい表現になってしまうのだが自分の中からか外から来たかわからないものに感情は動かされてしまう。

 感情は操作できるものと出来ないものがあるのかもしれない。自分や環境の力を使ってコントロールするもの。外部や自身の経験が元で不意に安定性を失う感情。感情をコントロールしようという努力は決して無駄ではない。しっかりと結果ものこる。けど、それは完璧なものではないしどうしようもないものもある。誰かしら、何かしらの出来事に感情は操作されてしまう脆さあるいは素直さや自然な部分を有していると言える。では、どこまでが自然なのか、つまりどこまで影響力を持つことができるのだろうか。自分でコントロールできることに満足する人もいるだろうし、操作できないものの方に喜びや感動を感じる人もいる。だから、本当にその人次第なのだ。けど面白いことに、感情というものは人に働きかける力を持っている。それは相手が求めていないときでさえ。だからこの上なく不快な気持ちが生まれたり生きていて良かったという感動も訪れる。わざと不安になって人生を楽しむ人もいるし、楽観的に生きて失敗することで喜ぶ人もいる。全て自分で操作しているようで操作されている。実際はどうなのかわからないものが感情の面白さでも遣る瀬無さでもある。