Carpe Diem

Think good thought.

描写

 

 描写することは難しいのだろうか。難しいと思う。そして、描写について長い文章を書くこともまた簡単ではない。ある程度いつも考えていたり、前から描きたくてしょうがなかったテーマならまだ少し書きやすい。突発的なテーマに対しては、自分で文章を書きつつもどこに向かっていくのかは全く予測できない。けど、常に文章を書くことがそうであるように自分の考えだって文字にしてみてやっと初めて知ることの方が多いのかもしれない。描写については思うことがこの時点で二つくらいしか浮かばない。そして書き切る自身もあまりない。描写することは自分にとってとても難しいことに思えるから、描写することについて書くことにも少なからず抵抗というか負担を感じているのだろう。描写という言葉の意味をよく知らない。実際意味を細かく知らない言葉も多いし普段はそれで良いと思っている。なんとなく理解しているものがほとんどで生活に支障はない。そして実際に正確な意味や細かい意味をふと聞かれた時に答え返すことのできる人の数は極めて限られていると思う。

 描写するという言葉はどうも、自分にとっては「自分が見たものをそのまま書く」という意味があるような気がする。マテリアルを正確に、できればそのままで言葉にして伝えると言うイメージが強い。それ以外だとちょっと描写という感じはしない。自分がこれまで考えてきた、体験してきた描写というのはそういうものだ。どうやらこの言葉は自分で見たものだけではなくて心の中、頭で考えたことに対しても使うことができるらしい。まあ言われてみればそうだとも言える。けど、自分にとっては全く一般的ではない。そして、言葉だけでもない。表す手段はてっきり限られていると思っていたが音楽などでも描写することは可能であるらしい。むろん、これまでの人生で音楽を用いて何かを描写したことは一度もない。マテリアルと表現の間に何の飾りもないのが大切なのだと思う。そのもの、ありのままであればあるほど価値がある、正確にしっかりと描写できているというふうに昔から思っていた。なので自分の考えや心の中を書くことは描写になり得ないと思っていた。そもそもの対象が満遍なく誰からも認められるものでもないし形もない。自分でも上手く操作することもできないし書いてみるまでわからない。そんなものを描写しうるのか、できないと思う。そして普段自分が書いているのは考えや体験だ。自分の中にしか存在しないもの。間違っても同じ家族や電車で隣に座った人が持っているものではない。それを言葉にする作業は単に書き出しているだけだと思う。自分の考えを書く、ただそれだけだ。描写とは違う。描写されるべきものがまず存在しないし不安定なのだ。ステブルではないしアブストラクトでありプラクティカルだ。そこに対してどんなに優れた技術や鑑賞眼、観察眼を備えていようともどれほどオリジナルに対して正確であるか測ったり知ったりする方法が存在しない。だから、考えは書くものであり描写に向いていないというか描写し得ないものだと感じる。そして、毎日続けていることは考えを書き続けること。これまで描写に挑戦してみたことはそれほどない。なぜか限界というか壁を感じてしまう気がするのだ。実際にそれがあるのかわからないし試していないだけかもしれないが自分から「描写」は遠い位置にある。試しに自分の住んでいる町、家、駅について描写してみようと思ってもよく意味ややりがいがわからないし少なくとも正確に描写する自信はない。技術も絶対的に足りていないだろう。その状況で取り組めばフィクションになってしまう。もともとなかったものを作り出してしまう。それ自体がオリジナルなもの、空想。それは想像であり描写とは言えない。私はまだ、今の時点で描写というものに向いていないのだろう。考えならいくらでもかけるのだが。そして将来も描写はできていないかもしれない。

 描写に関して驚かされたことが一つ。ある有名な作家の文章を読んでいた。短編。とても軽い気持ちで読んでいたのだが衝撃にあふれていた。7つほどの短いストーリをまとめた本。それぞれ場所が変わっていく話。ほとんど覚えていないが一つは特に強烈に記憶に残っている。その場所はコンビニだった。コンビニでの出来事を見事に描写していた。時間にすると非常に短いのだろう。一瞬の出来事。自分がコンビニに滞在する時間を考えてみるといい。目的が決まっているといない場合があると思う。雑誌の立ち読みや寒い時期に体を温めるなどを除いて店に滞在する時間はとても短いと思う。急いでいる時なんて最短で全てを済ませようとするから会計まで1分もかからないことだってあるだろう。少なくとも自分一人ではない。店員がいるはずだからだ。そしてほとんどの場合は他のお客さんも含めると4人や5人はお店に人間が存在しても何も変なことではない。今日のことでもいいし1年前のことでもいい。自分がコンビニに行った時のことを描写することができるだろうか。つまり、その時起きた出来事を正確に言葉にしうるかということだ。これはとても難しいことなんじゃないかと思う。自分としては。

 描写が素晴らしい人の一つ目の特徴は物事を正確に書き表すこと。うつすと言ってもいいくらいに。ありのままのものをありのままの言葉で、余計な言葉を添えずに。コンビニのおでんをどのような言葉に並び替えれば描写というものが成立するのだろうか。受け取り方は間違いなく人それぞれだ。人に食欲を与えたり想像させたり、思い出させたり。いろんな効果があるかもしれないが本当に美しい描写は限りなく物事を正確に描写しているし読んでいればその瞬間わかるはずだ。どこまでもありのままで、事実は小説よりも奇なりと言って感じで、ある時は本物よりも本物らしくなってしまう。

 もう一つは、その人が見た世界をありのままに書いているということ。マテリアルはそのままで、何も文章は想像によるものではない。いや、想像、創造された文章なのだけど本物のようにしか映らないもの。そして明らかにその人の視点が伺えるもの。その人が素直に書いているか作っているのか、意見か事実なのかわ読み取りにくい。それでいて、自分の目で見たものをありのままに書き写す能力というものは確実に存在する。それは他者とは共有できないものだ。その人にしか見えない世界。同じものがあってもその人のその方法でしか描写されないもの。自分の見た世界をそのまましっかり描写できる人とできない人がいる。あくまでも、他の物語を生み出すわけではなくて自分の目線から見た世界をありのままに(正確にと言っても良いかもしれない)映し出す能力。これは手に入れたいがすぐに手に入るものではない。

 私が読んだコンビニの話。それは2分にも満たないほどのものを何十ページにも広げていた。恐ろしくなった。文章によって時間は伸び縮みするのだと実感した。そして、自分が見ている世界を紙の上に再構築していくことの難しさとその素晴らしさに興奮し怯えた。あっけにとられた。それ以来かはわからないけど、描写することは普通の人が普通にできる種類のものではないと思ってしまったのだろうか。私にとっては、形があるものをそのままそっくり書くより形のない自分の中に渦巻いている考えを書いた方が何倍も楽だし正確にできると思う。