Carpe Diem

Think good thought.

肌にまとわりつく感じ

 

 肌にまとわりつく感じ。この一言で自分が言いたいことのほとんど全てが伝わってしまうのではないかと思う。ある種の人には。正確に表現しようとすると言葉が変わってしまうだろうが、誰もがこの感覚を持っているように私は感じる。肌にまとわりつく感覚。まとわりつくというと物質的な接触があるように感じられる。しつこく、時になんとなく。それは風のような形を持たないものかもしれないし、呪いのように存在すらはっきりしないものかもしれない。しかしながら、何かは必ず人の肌にまとわりついているし、それがやってきた時にはそれがわかる。なんとなくわかることもあれば長い時間をかけた後でハッと気づかされることも。誰から教えられたわけでもない。大人になったからわかったのではない。それまで生きてきた経験からこの感覚を得たのだろうか。昔からずっと続いてきたことに名前がついただけかもしれない。よくある他の物事のように。子供の頃はそれが何なのかよくわからなかった。けど知識を摘んだり多くの時間が流れることでそれに対して名前をつけたり理解できるようになる。そんなものの一種。そんな瞬間はある程度定期的にやってくる。しかしいきなり襲ってくることも少なくない。いずれにせよ、そこには移動が伴うのだ。自分が移動すること。もしくは長い時間がかかること。環境が勝手に変わっていくこと。物理的に、時間的に自分や周囲が入れ替わった時にそれがわかる。明らかに目に見えるものではない場合が多いのかもしれない。かつて風の姿を目にしたことのある人がいないように。竜巻なんかとはちょっと違う。

 それは例えば春。春がきたことはよくわかる。徐々に冬が過ぎて暖かくなってくる。けど春を実感するときは暖かくなった後ではない。決して。寒いから太陽の暖かさを感じるように、暗闇の中で明かりがわかるように。月は太陽に照らされ続けているから、地球が、自分のいる場所が夜になっても明るいと知った時は少しおかしな気持ちになった。単純な驚き以上のものがあった。春が来るとどんな気分になるだろうか。季節の感じ方には大きな個人差がある。それは自分でそう思うことでもあり事実でもあるのだ。季節といえども人それぞれで捉え方は大きく異なる。自分は早めに季節の移り変わりを感知する。けど、そう思っている人も呆れるほど多いかもしれない。桜が咲く頃には春の中盤だと思う。空気の質というか手触りや肌触りが変わる時がある。空気の張り詰めた感じが冬のそれとは違う。それはもちろん目に見えるものではない。光の当たり方が変わることでわかる変化ももちろん存在するのだが。あの張り詰めた空気が少し遠くに追いやられて、まだ柔らかくはないけど少し親しい気持ちを持てるものに変わる。朝、洗濯物を干す時に感じるものがある。雨戸を開けて入ってくる空気が異なる。そして桜も枯れるころにはもう春は過ぎ去ろうとしている。そこからはもう夏だ。

 春に入りかける時、その年で初めて春を感じる時大きく感じることがある。空気の質が変わる。そしてそのたびにあることも思い出させられる。これまでの自分の経験を。どちらかというと、あまり良いものではないような気がする。それを感じるといつも気持ち悪くなってしまうというと大げさだがまたやってきたかと思いじっとしていなくてはならなくなる。そしてその感覚を言葉にしなければどうしようもなくなる。発表会の舞台に出る前の子供の頃の緊張に少し近いものがある。よく言われるように春は変化が多い。出会いや別れ。いろんなことを経験してきたその時のイメージだけが残っているのだろう。秋に金木犀の香りを嗅いで安らぐあの気持ちとはある種正反対のものだ。この春の感覚。その時、空気が変わるのを感じる。その、少しだけ暖かい空気に包まれる。それだけじゃなくてあらゆる春のイメージが自分の肌にはまとわりついている。どちらかといえばそちらの方しかまとわりついていないのかもしれない。空気はスイッチのようなものであって。その空気と感覚を持ってまた私は春に備えていく。ふう、やれやれといったようなため息をついて。それは来ることがわかっていながら決して避けることのできないもの。嫌なような気もするが毎年来ないとおかしくなってしまうものでもある。春は私にとってどこかから突然舞い降りてくるでも落ちてくるものでもなくて肌にしっかりとまとわりついてくるのだ。夏への変化は特に気にならない。秋と冬へのスイッチもよくわかる。しかしながら春だけは感覚を伴わざるを得ない。これはもちろん将来的に続く保証はないのだが。記憶としては一生残っていくことだろう。

 もう一つ強烈なもの。それは香港のそれだ。正確に言うと香港だけではない。以前フィリピンに行った時にもそれ味わった。匂いが香港のものとは大きく異なるが。初めて一人でセブに行った時。空港に降り立って出口へ向かう。ものすごく薄暗い。背があまり高いといえない現地の人と客引きが群がっている。群がろうとしているわけではないかもしれないが文字通りそうなっていた。電気は深夜に近いにもかかわらずほとんど落とされていて暗すぎた。そして東南アジアのような熱気。体がべっとりとまではいかないけど重くなった気がした。そして実際重くなったのだ。スーツケースも気温の変化に耐えられず汗をかいていた。そんな光景は今まで見たことはなかったけど。五感を使っていろんなことをその瞬間吸収していたのだと思う。これに似たようなことが香港であった。それは二回目の訪問。以前も少し匂いだけは記憶していた。よく考えるとあの頃は冬で曇りと霧ばかりだった。そして二回目は真夏だった。大雨か晴天のどちらかといったわかりやすい天候。40度近い気温。そして何よりも肌にねっとりとべったりとくっつくあの感覚。そしてそれは空気だけの話でもない。匂いも混じっている。路上で売っているもの、活気のある人々、あらゆるものの匂いが生きている。最初は本当に気持ちが悪くなった。不潔とか不衛生というわけでもなく。実際にそうだとしても耐えることはできるだろうが。その感覚ばかりはどうにもならなかった。しかしながらこの話を他の人に通じても五人に一人ぐらいにしか伝わらない。香港の匂いというものは実際に存在するのだと私は思っているが。30分散歩しただけでも体と服中に匂いが付いてしまう。部屋もその匂いで満ちている。帰ってきたらまたシャワーを浴びたくなる。もうこのまま帰ってもスーツケースから一生臭いが取れないんじゃないかと思った。何にも大げさな表現はしていない。あれほど圧倒されたことは初めてだ。アメリカで飽きるほど嗅がされたマリファナの匂いのようにどこまでも記憶から離れない。香港の匂いがしたら一発で当時のあらゆる記憶が戻ってくる。そんな種類の肌にまとわりつく強烈な感覚だ。体が、その独特な空気にぴったりと包まれてしまうのだ。何かの呪いのように、こびりついた血のようにいくら洗っても消えないような感じで。嫌いなわけではないけど肌に合わない気がした。肌に合わない。そのような表現の意味も本当によくわかるようになった。Somehow, it disagrees with my skin.

 肌にまとわりつく。それは五感を最大限に利用して得られるものだし記憶せざるを得ないものだろう。長期的でも短期的でもあり得る。そしてそこには、何かしらの移動を伴った、あなたが生きてきた道や足跡がある。