Carpe Diem

Think good thought.

何のために勉強するのか

 

 とても簡単な質問だ。ありふれたもの。それでいて実際真剣に正面から向き合ったことがないもの。避けようとしていたわけではないけど向き合わなくても大丈夫だったこれまでのこと。その一つにこの質問が入るだろうか。

 何のために勉強をするのか。誰に問われるかによって答えは変わるだろう。それは他のすべてのことにも言える。実際いつもそんなことは意識していないけど。答えの数が単数か複数化もはっきりしない。そしてひとつだとしてもそれを表す方法はいくらでもある。本当にいくらでもあるのだ。具体例を入れ替える程度の話ではなくて説明の方法や構造、話し方や言葉などをいくらでも変えることができるし変えなければいけない。それを無意識でというか特に苦労もせずに毎日こなしていることがすごいとも思うが誰もそんなことを賞賛してくれない。世間ではコミュニケーション力があると評価されるのかもしれないが、その評価の方法にもいくつもの表現があるように、一つにまとめることは時に難しすぎるしあまり意味がないのかもしれない。子供に質問をされた時、それが自分の子供か人の子供かによっても答えは異なるだろう。将来何になりたいか、どんな夢を抱いているのか。宇宙飛行士になりたい、弁護士、主婦。いろんな夢がある。他の子供を見て羨ましいと思う。他人の子供のことは否定してはいけないと思う。無謀に思えることも進めてしまう。けど自分の子供に対しては厳しく当たってしまう。何が親の仕事なのかははっきりわからない。他人が言ってくれないことを、家族だから言えることを言うべきなのだろうか。宇宙飛行士を目指したいという子供に対してむやみに応援するのは良いことなのか良くないことなのか。現実的に難しいとあっさり伝えてしまうと悪いのか。叶わぬ夢を見させ続けることが大切なのか、早いうちに現実を教えて欲しいものがあるとしたらそれに対して何かを差し出すことが一般的であるということを教えてあげてこそ愛があるのか。確実に言い切ることはできないが、自分の子供と他人の子供に対しては答えが変わってしまうのではないか。いや、答えが変わってしまうのは間違いないし、その理由が自分か他人の子かという話ではない。時にそうだとしても。自分の子供の場合と他人の子供の場合には感情に違いがあるのではないかと思ってしまう。それが大事なのだ。自分のことを客観視するのは容易ではない。

 中学生に質問されるのと大学生に質問されるのでも答えが異なるだろう。相手がどれほどの知識を持っているのか。そして、その質問で本当に聞き出したいものは何かをあなたは考えるだろう。子供の質問は純粋だとよく言われる。本質を突いているとも言われる。同じ質問であっても、つまり同じ言葉を使って質問をしていても本当に聞いているものは異なる。遠回しに聞いているとも言えるし、そうすることで最も欲しい答えが得られることもあるからだ。むしろ、率直に本質に踏み込まないことがコミュニケーションの基礎になっていく。

 17歳の肖像という映画。邦題と原題は大きく異なっている。Education。高校生ほどの生徒が大人に聞く、教師に聞く。教育の意味は何かと。そしてその時に教師はうまい答えを持ち合わせていない。あの状況は本当に良くないし決して起こってはいけないと思う。それが難しいとはわかっていながらも。しかし経験を通じてその女性は、生徒は教育の価値を知る。経験することでしか、失うことでしかわからないものが世の中には幾つかあるのかもしれないが教育の目的や効果もその一つなのだろうか。

 なんのために勉強するのか、誰のために勉強するのか。例えば、親はよく子供のために子供のことを思って勉強しなさいという。将来勉強をしていないと困る。あなたのために言っている。もし誰も命令をしなかったら、指示をしなかったら、忠告をしなかったとしたら人は勉強するだろうか。多分するだろう。けどそれは普段親が言うような「勉強」ではないはずだ。教科書に載っていることを隅から隅まで覚えること。受験に成功するため、つまりは良い大学に行くため。そして優れた企業に就職してお金を稼ぐこと。一般的にはそう思われているだろう。そうでないと将来子供が困ってしまうと本気で考えている親もいる。そして、息子が困るだけではなくて親自身が困ると考えている人も少なくないしそういう人たちは自分の不安を無理やり子供に押し付ける。あなたの成績が悪ければ世間からの目が厳しくなる。あなたが将来成功する、お金を稼ぐことができなくなったら親である私たちの生活も厳しくなっている。そういう人たちは勉強を投資とは見ていないだろうし義務や命令という形で押し付けているようにしか思えない。勉強とはそれだけではない。今あげたようなものは、どれだけ篩から落とされないようかという話だ。それを得られれば積極的に世界が広がっていく、自分が求めているものを集中して獲得するのではなく、横断的に興味がないものまでも身につけること。それも将来役に立つであろう、間違いなく。

 自主的に行うものも勉強と言えるだろう。自分が興味を持ったものを徹底的に吸収していく。人に言われようが言われまいが自分で進んでいく。子供のころ宇宙に関心を持ってそのまま熱中していく人もほんの一握りいるが、ほとんどはやめてしまう。すべてのものが勉強の対象になりうる。それは誰も気にしないような小さな虫かもしれないし家庭の問題を改善しようとすることかもしれない。先ほどの勉強とは真逆のように感じる。能動的ではなく主体的。人に言われたことをやるのではなく、自分で優先順位を決めて取り組んでいく。子供の場合はそんなことすら考えてもいないと思う。本能とも言えるだろうし好きなことをしているだけとも取れるだろう。もちろん、横断的に学ぶのではなく限られたことだけをしていると可能性は広がってしまうかもしれない。けど本来勉強といったら好きなものをするだろうし、自然な状態ならわざわざ嫌いなことや関心のないことに進んで時間を割く人なんているのだろうか。勉強させられているのか、自分で勉強しているのかは大きく異なる。誰のために勉強をしているのか。自分のためか親のためか。親にお金を送るために勉強し続けているのは自分のためと言えるのか親のためと言えるのか。そもそも、誰のために勉強しているのかはなんのために勉強しているのかと同じくらい考えない問いかもしれない。

 名付け方はさておき、学ぶという行為は誰もが行うことのように思える。けどこの世の中で、他者との交流がない中で生きていくことはないからそれを検証することは難しい。人に言われて勉強している人が多いのかもしれないし、そんなことは気にせず呼吸をするのと同じくらい自然な行動として人間の生活に組み込まれているものなのかもしれない。

 ひょっとしたら、誰のためも何のためもなく勉強や学びは行われるのだろう。香港で学生たちが将来をかけた行動をしている。しかし、そこに自習室というものが存在するのが非常に興味深い。このような言い方押したら失礼になってしまうかもしれないが。彼らは大学で授業に参加できないから勉強しているのか。それとも、現状を変えようとして学びが必要なのか。彼らにとって勉強の目的とは何で、誰のためにしているのかは明らかなのかもしれない。