Carpe Diem

Think good thought.

本と言葉

 

 本は大人になってから読み出した。子供の頃は相当本に触れる機会があったらしい。けどそれは、自主的であったかはわからない。そもそも記憶にすらないのだから分かるはずもない。読むというだけでなくて、絵本の絵を楽しんで見たり紙芝居も多く見ていた。大人に本を読んでもらって聞いていることも多かったのだろうと思う。最近処分したが、子供時代にたくさん読んだ本もあったらしい。特に記憶にはなかった。小学校の頃本をプレゼントされたことはある。誰の家にでもありそうな本。例えばそれは子供向けの坂本龍馬エジソンの伝記、ピーターパン、日本昔話。それらはもちろんあった。日本昔話なんてシリーズで100話以上かそれくらいの量があったと思う。問題なのは、すべてを何回も読んだはず、読んでもらったはずなのにほとんど覚えていないこと。タイトルは聞いたことがあっても内容や結末に全く結びつかない。10刷に一冊も覚えていないのではないか。

 そんな無意識な子供時代を過ごしてから中学高校生になる。このころはほとんど本を読んでいないはずだ。読んでいた記憶がない。数少なものを除いて。ハリーポッターなんかは誰もが読んでいたはず。そういう当たり前のものは含まない。それに関連する細かい本を読んだというのなら話は少し別だけど。あとは教科書。教科書の話も覚えているものは少ない。とても断片的だ。タイトルばかり覚えていてというか、頭から離れないだけで内容はどこへ行ってしまったのかわからない。なぜあの時期に本を読まなかったのか、なんて後悔したことはない。周りに本を読む人がいたのかどうかも覚えていない。さすがに高校生も終わる頃になるとその辺のこともわかり始めたが。おそらく、本を読む必要がそのときの自分にはなかったのだ。いつも同じこの結論に至る。これから死ぬまでもそうかもしれないが、実際本を読まないからといって生死に関わる困難は訪れないかもしれない。読まないならそれなりの人生を送るだろうし読む暇のない人生がまたやってくるかもしれない。あの時期は何をしていたのか。携帯電話さえろくに使っていなかった。暇つぶし、時間つぶしに何をしていたのだろうか。勉強や会話ぐらいしか思いつかない。そして好きなことをしていた。それは例えばスポーツ。飽きるくらい、と言っても実際飽きることなんて全くなかったがサッカーをしていたと思う。だから、読む暇も必要性もなかったのだろう。それは今も同じかもしれないが。

 読書の傾向はいつ頃出来上がるのだろうか。傾向はあるとしてもすぐに変わるものだと思う。時間は限られているし、いつでも簡単にできるものではないし、常に最初にやらなければいけないものでもないから。ある人にとっては確実に必要で最も優先度の高い行動が読書かもしれないが、本を読むことを娯楽だと考える人もいるし時間の浪費だと捉える人だって少なくない。自分に読書の傾向ができた時があったとすればそれは18歳かそれ以降ということになるだろう。そして今までそれは続いているが明日になったら終わってしまっているかもしれない。今だからこそ成り立っているのかもしれない、他のすべてのことと同じように。今では机の上に常時10冊程の本がある。以前のサッカーをしていた時間がどうなったのかを考えてみる。それが今の読書になったわけだと思う。けど全てがそうなったわけではなくて半分弱ほどは英語になった。どんなに辛い時でも、体調が悪くてもやる気がおきなくとも英語を聞いていた。内容はニュースが最も多い。世界の時事。戦争、紛争、政治、経済、娯楽。また映画を見たりしているがそれは英語の勉強にもなるし歴史の勉強にも時事理解にもなるので英語となんら変わりのない行為だ。

 世の中本を読んでいる人はたくさんいるものだ。昨日はそんなことに驚いた。自分もなかなか本を読むようになったなと思った矢先に。本を一冊読んだら一つのことだけを覚えておけばいい。というようなことをいつか聞いた。それは実行している。内容は完全に忘れても教訓というか学んだものは一つ以上はある。それすらも忘れるほど本を読むようになったこともいいことだ。ひとつだと本当は少なすぎるかもしれないが。覚えている文章。本当に幸せなものは時代から解き放たれたものだ。何かの序文で見た気がする。本の内容は一切覚えていないし言葉も不正確だ。けど、強烈に頭に刻印されたしもう忘れることはないと思う。昨日読んでいた本の素敵な言葉を書き写していたら何十字にも及んでいて驚いた。たくさん本を読んでいれば、表現や言葉だけではなくて文章や本一冊まるごと保存したい、覚えたい、自分のものにしたいという気持ちが湧いてきたことがあるだろう。実際に自分が文章を書くときにそのような素敵なものを生み出せるのだろうか。それを考えるのは怖いような面白いような。これからも素敵な言葉や本に出会うのだろう。