Carpe Diem

Think good thought.

肯定の瞬間

 

 生きていると、こんな瞬間があるものかと思うときがあるはずだ。それは繰り返し訪れるものかもしれないし、悲しい瞬間かもしれない。でも、自分がこのことを考えるときは大抵とってもポジティブで幸せを感じるような時のことだ。このような言葉を並べると安っぽくて嘘みたいに聞こえるかもしれないけど。

 その日は久しぶりに出かけた。帰りの電車の中だと思うがある記事を読んだ。何も持っていない男の話。何もないと言葉で書くと簡単だが、実際にその状態になると大変なものだし、生きていくことが最も重要な課題にもなる。それは出会いについての話だった。ある男とある男の出会い。それは偶然でもなかったが、世の中でそう簡単に起こる種類のものではない。もちろん、そういうことをする人たちの世界では頻繁に起こるものだし、一般人が聞くと勇気をもらえるような話ではあるのだが。二人の男はどちらとも、普通に考えてそれらがなくてはならないというものを持っていなかった。生活において、生きていく上で最も重要であると思われるものを持っていなかった。片方の働きかけで、両者は出会うことになる。それが全てだ。それは肯定の瞬間といった感じで表現されていた。

 生きていていろんなことがある。楽しいことや悲しいこと、悔しいことや忘れない経験。そんな簡単な言葉じゃ収まりきれない物事が。そんな中で、自分のこれまでの人生が肯定されていると感じる瞬間が確かにあると思う。このように感じるのはおかしいなんて思わないし、これまでに感じたことがあるウ人もいるのではないか。同じような感覚で、自分のこれまでの人生のすべてを否定されたように感じたことがある人もいるのだろう。

 いろんな歌にも表現されている気がする。日常で常に自分に向かって問いかけることではない。そうしている人もいるだろうが数は多くないだろう。毎朝か外に向かってこれまでの自分の行いは全て正しかったかなんて問いかける人は少ない。まず、そんな理由がないだろう。あったとしてもそれを毎日や高頻度で繰り返すには仕組みもいるだろうし容易な言葉を用いれば面倒だということになる。つまり、それに見合う価値がわからないしないと思うということ。まして、これまでの自分の人生がすべて間違っていたか確認する人なんていないと思う。生きていくことすら大変になってしまう。自分がこれまでしてきたこと、見てきたもの、あらゆるものを肯定してくれる人に出会いたい。そうしてくれる人に出会った。そんな体験があるといったような歌詞は幾つか聞いたことがある。それを書いている人もそんな体験があったのだろうか、それともそれは希望を表したものなのか。やはり、肯定に関してが多い。自分に話しかけている人もいた。英語の表現が何かすぐ想像できると思うが、私は正しい道を歩いている。という言葉はよく出てくる。宗教的な考え方も含めて自分を信じることは大切なのかもしれない。けど今日はその話ではない。

 どちらかというと、この全てが肯定される感じというものは自分で起こすというよりも他者からもたらされるもののような気がする。きっかけが重なって自然とそう感じられるような時があるということ。そして、どんなことを感じるのか。その時が来た時に、今自分がいる道が正しいと感じる。そしてこれから進んで行く道に自信が持てる。明るい気持ちになれる。過去を振り返ってみたときに全てが正しかったように思える。これまでに起こった出来事、転機。悪かったと思っていたことも、失敗も挫折もこの時のためにあったのかと思えてしまうような感覚。そしてそれはとても自然に心の中に入ってくる。わざわざ自分で考えなくとも、自分を盛り上げようとしなくてもそう思えるのだ。心が満たされたような感じで。これまでの道は正しかった。これからも大丈夫だと。

 それは人との出会いかもしれない。それとも機会との出会いかもしれない。何れにせよ、向こうからやってくる。もたらされるという表現がしっくりくる。祝福されているというと少し大げさかもしれないが。そして、この機会はきっと少ないのだと思う。信じることを別にして、自発的なものを除いてこのような機会が持たされることは限られている。そしてその時に感じるものはとても一方的だ。本当に全てが、文字通り全てが正しかったように思えるし明るくなってくる。そう聞くと少し危ないような、嘘っぽいような気もするがこの感覚を知っている人ならすんなりわかるだろうしこんなに長い文章もいらないと言われそうだ。恍惚という言葉ではぴったりではないかもしれない。

 最近このような感覚に陥った。それは前にも感じたことはあった。いつあったかは覚えていないが。そしてその日に、その記事に出会った。そして今そのことについての文章を書いている。次いつそんな感情になるのかはわからない。それが楽しみであるし、くる保証がないこともわかっているのだが。逆のことは、考えるつもりは毛頭もない。