Carpe Diem

Think good thought.

直面すること

 

 直面することの怖さ。そしてその潔さ。あらゆる物事に直面するというのは容易ではない。これまでにどれほどの物事に直面してきただろうか。能動的にも受動的にも、直面する、物事に真っ直ぐ取り組む、直視する、避けられない状況に向き合ったことがあるだろうか。その機会は決して多くないのではないか。その問いを直視することは簡単なことであるかもしれないし、ある人にとっては難しいとも言えるだろう。どれほど多くのことに向き合ったかも大事な軸であろう。そして、たった一つのことでもどれほどの期間目をそらさなかったか、どれだけ深く踏み込んでいったかも大事なのだろう。それらすべてを通じて、向き合うことは非常に大切なことであると思う。向き合う前とその後では見える世界が変わってくるはずである。たとえ同じ場所に戻ってきてもはっきりと、もしくはわずかに感じ方や考え方が変わっていることを感じる。そんな機会がこれまでにあっただろうか。

 逃げるな、すぐに諦めるなという言葉は世間に溢れている。とっても無責任な形で。人にそのような言葉を投げかけることによって自分もいろんなことから逃げていないだろうか、と中学生くらいの子どもに言われてどう答えるか。すぐに諦めてもいい場合はあるだろう、良くない数と同じくらいに。それとはちょっと違う。向き合う音と逃げることはぴったり反対なようにも見えるけどちょっと違う。同じく両者には勇気がいると言った共通点も少なくないのだが。やはり、いろんなものごとに向き合っていくのは怖い。なぜそうなのかと考えてみても簡単に答えは見つからない。

 向き合うことにそもそも人は慣れていないのかもしれない。できるだけ向き合わない、問題や機会に直面しないように生きているのかも。問題を避けるというのはわかる。想定されるリスクを計算すること。なんらかの計画を立てて実行する。自分で対処できるものは早い段階から対策を施す。そうすることによって問題が起こる確率は減る。そして、問題が起こったときにかかるはずであった時間をも短縮することができる。先を見て生きているか、見ていないかでは大きく結果も変わってくると世間ではよく言われている。それではチャンスはどうだろう。チャンスに直面するという言葉はあまり聞かない。直面する、対峙するというのはなんだかネガティヴなものかと思ってしまう。チャンスに向けて頑張る。人事を尽くして天命を待つということか。その機会に備える。けど実際、最も大事な瞬間とわからなかったり、わかっていてもうまくいかないことはある。そして、後になってあの時が自分にとって最も重要な瞬間だったと気づくことが多い。

 世間でもなるべく避けるべきだと考えられているものは幾つかある。個人のレベルだと問題にならないかもしれないが、人前でそのことについて触れると空気が変わる。周りから人が減っていく、煙たがられる。タブーと言われているものもあるし、そのこと自体を口にすることが望ましくないとされているものも少なくはない。それは例えば生、死、残虐なこと、性についてなど。もちろん全てがネガティブなことというわけではない。とっても明るかったり人に良い影響を与えうることでも憚られることはある。なぜそうなるのだろうか。それらについて人と意見を交わしたりしたい人も世の中にはたくさんいる。しかしながら彼ら、彼女らがマジョリティになる日は近くない気がする。

 けど、あるとき気づいた。小説をたくさん読み始めるようになってハッとしたことがある。その頃はいろんな種類の物語に触れるようになっていた。ノンフィクション、フィクション、ジャンルを問わずに。その時に気付いたこと。どの物語にもほとんど、生と死、(恋)愛、家族、トラブルなどが入っているということ。どんな物語を読んでも、それらが入っていない話は見つけられなかった。自分が小説を書くとしたらそれらを含めれば良いのか、とすらその時に思った記憶がある。人との会話には限界があると思う。気を使ってしまう。その点で言えば、本に書いてある文章は無限だとも考えられる。ほとんどのことについて本に書いてある。自分でそれを見つけ出して読めばいいだけだから。

 有名な小説でも、誰も読まないような本でもやはり生や死について語らないものはない。誰かが死んだり、家族に問題があったり。それでいて物語は順調に進んでいく。けど、それらがないと物語が成立しないような気もする。けど、物語には世間でもタブーとされているものが平気で展開されている気がする。むしろ、文章や物語のような非日常的空間だからこそ、生き生きとそれらのことについて語られているのかもしれない。普段皆が人前で話せない分も含めて。

 直面すること。いろんなものに触れ合っていく、そしてその瞬間にしっかりと向き合えば何かを得られる。同時に失うかもしれないが。それはフィクションかもしれないしノンフィクションかもしれない。タブーであろうと、重要なものが重要であることには変わりない。