Carpe Diem

Think good thought.

表し方より受け取り方

 

 これが人生に対する教訓であり考察の一つだ。表し方よりも受け取り方が大切。どちらも重要なのはわかっている。自分がどちらかを選ばなければならないとしたら、そんなことはないと思うけど、受け取り方を重視する。そのように生きていくし生きている。どれほどの解釈を出来るかというのが幅である。それこそ、何を学んできたか、体験してきたか、摂取しようとしてきたかがよくわかると思う。表し方によってそれが人に伝わっていくのだろうが、そこはとにかく気にしていない。それよりも、誰かが細かいところに気づいてくれれば良いなと思っている。

 他人の考えは決してわからない。そう基本的には思っている。それはある程度明白なことだし世の中の真理の一つでもあると思う。どこまで行ったって相手のことを完全に理解することは出来ない。出来ると思ったことも歳をとってからはほとんどない。自分のことだって精一杯なのにどうして相手のことをわかることが出来るだろうか。まだ自分で言葉にしたことがない考えやわからない思いというのがたくさんうずくまっている。本気になればなるほど、というのは関係ないかもしれないが、いくら相手を愛していようと大切に思っていてもその気持ちと比例して相手のことを理解できるようになるとは限らない。気持ち、思いと理解度は決して比例しない。そう思いたいだけの話なのだろう。わからないから、諦めている訳じゃない。伝えようと必死になることもあるし、もちろん誰かに向かってしゃべっているならばそれは伝えることが目的なのだからしっかりやっている。けど、相手の考えは正確につかめない。どのように理解したのか、どれほど伝わったのか、そもそも自分の話を聞いていたか?諦めるのではなくて、期待している。完全にわかりあうことは出来ない。自分の伝えたいことを自分で正確に表しきれているかも怪しいし相手の態度も理解度も不明。それでいて、期待する。それが面白い部分でもあると思う。元々違う(当たり前のこと)し、完全に伝わらないからこそしっかり伝えようとするし伝わらなくても楽しめたりする。「明日を信じない」という人が実際には明日を期待しているのと同じように。

 どのように受け取るか。その幅がある分生きるのが楽にもなるし楽しくなると思う。基本的に辛くなったり思考がネガティブに終わったことはないからこう言えるのかもしれないが。その気持ちが表現にも出てしまうことがある。いろんな表現を疑う。これはどういう意味なのか。表現通り理解したら簡単だけどもっと深い意味があるのではないか。この言葉は元々誰のものだろう。引用ではないか。その言葉が発せられたときはどのような状況でどんな思いが込められていたのか。関連はないか。最近ではほとんど繋がりがないものを見いだすことが困難になってきた。自分が書く言葉も誰かのものを例にしたり参考にしているだろう。そしてその真似をしている人もまたその歴史の上でいろんなものを吸収し発信してきた人たちなのだ。いろんなことを色々と進めるといろんなことがわかってくる。歳をとれば生きた分だけ学べると思っている。だから文章を書くときも、求められていなくったって余韻があるように書いたり誰かの言葉を挿入してしまう。千人に一人でもこの楽しさを気づいてくれたら良いなと思って。そう思いながらいろんな文章を読んだり音楽を聴いたりしている。その人がその時に発している言葉だって違う時代の誰かの言葉をその時たまたま引用しただけかもしれない。それを知らないだけの理由で決めつけたり思い込んだりしても良いけど他人に迷惑をかけることにもなるし想像力もない。想像力がありすぎても悲劇は起こるのだが、想像力がないことによって起こる悲劇の方が惨いことが多い。何事も決めつけていては進まない、と決めつけても行けないのかもしれない。

 こんなことを行っているとつまり、一人で想像を続けているだけなのかと思ってしまう。そんなことはないが。けど、人を愛したり嫌われたり、本を読んだり読まされたり、必死になって働いたり、他人から無駄と言われるような時間を過ごしたって生きていればいろんな見え方が生まれてくる、と自分で解釈している。相手に伝わらなくたっていい。人は自分が思っている程見ていない訳でもない。いろんなことがあった時にどう感じられるか。その引き出しをたくさん持っておくといろんなことがあっても問題はない。それ故に問題は起こりうるが。例えばいろんな引き出しを持っていない人の気持ちを理解できないとか。人に何かを、世間に何かをしっかり表そうとすることは大切だし尊重している。自分にとっては受け取り方こそがパーソナルで重要なものなのだが、それと同じくらい表し方を大切にしている人もいるだろう。けど、受け取り方こそがすべてなのだと信じている。今日も引き出しは増え続けている。明日は、今まで救えなかった人を救えるかもしれない。