Carpe Diem

Think good thought.

過程

 

 過程については書くことがとても多い。それに関してわからないこととわかっていることが少なくないからだ。そしてそれを言葉に書き出して少しでも理解したいのだがそうすることに価値があるのか、そして実行しても成功に終わるかという不安が常にある。

 過程を記すことに意味はあるのか。これに関しては頭を使う。もちろん意味はある。評価もされるだろう。しかし社会の仕組みがそうであるように、人間が繰り返してきたようにあるものが評価されるには多大な時間を要する場合がある。それはある種の悲劇であると言えよう。画家の作品が最も有名であろう。し五何十年経ってその価値が認められ始めた。生前はそれほど市場でも価値がつかなかったのにと言われることは多い。死んでからでも認められないよりは認められた方がましということは言えるかもしれないが、そう思う人も限られている。ヒエログリフが歴史的に重要だ、素晴らしいものだと言われているが書いていた人は誰かわからないしそんな後になって注目されたり評価されるとは想像しなかっただろう。あるいはしていたかもしれない。そしてそのことについて文章を書いていたらとても面白いと思う。完結生が一つの鍵になる気がする。すでに、一つの区切りを持って終わっていること。

 過程を書くとどうなるか。真剣に、これまで過程を書き残そうとした人はいるのだろうか。二つのパターンが考えられる。今、目の前のことを粘り強く継続していたら結果的にそれが過程を記していたことになったということ。つまり後先を考えずに書いていただけ。少し重複する部分もある。もちろん今を、最新のものを常に記してきた。けど目的はそこで、連続的な視点や後から振り返った時に繋がりを持たせようとは思っていなかったかもしれない。それはつまり残ったもの、結果に過ぎない偶然の作品と言うか遺物。

 もう一つは意図的に過程を記していくという作業。制作過程などをドキュメンタリーで追っていく。映画でも小説でも、音楽でも、伝統工芸品がつくられる様子かもしれないしありふれた消耗品が世界各地に運ばれていくものを映し出したり書き出すことも出来る。これはどちらかと言うと過程と言うかもちろん途中なのだが、それ自体で完結しているものと言えるのではないだろうか。ゴールがあること。例えばそれが完成する、発送される。そこまでを記しきってドキュメンタリーと言えるし、いい意味で一つの終焉を迎えており過程のままとは言えない。

 何か終わったもの、今だけを記すということを除いて純粋に過程を保存しようとする人なんているのだろうか。結果や答えがなかったとしたらそれは過程と呼べないかもしれない。完了してこそ(それは発送であり、作者の死かもしれない)過程が生きてくるのか。そしてさらに、ある程度の社会的価値や需要があるものではないと過程は輝いてこないと思う。そんなことを思っていたらそれは社会の他のものごとにも適用できそうな気がしてきた。もちろん、何事も評価されないままだと埋もれたままで終わっていく。社会、世界で有名になるのはごく限られたものでむしろそんなものの方が少ないのは明らかだ。何百万の些細な、あるいは誇りを持った市民の生活があってこそ人間社会だと誰かが言うかもしれない。そして同じように、完結しているものは意外と少ないのかもしれない。答えがわかっていたりお終わりを意識して進めるもの。ほとんどがその過程で死んでいくのが通常の営みと言えるのかもしれない。

 ではもし、今自分がこの過程を記そうとしたら。過程を記すのは無謀なことかもしれない。今の積み重ねであってその結果を後世の人が見て言うだけかもしれない。逆に言えば、後から見たら最新のものでも成功でも失敗でも何でも過程にされてしまう。完成品や最終品はそのふたでしかない。それに注意をした方が良いのかもしれない。ビートルズのアンソロジーだってそれがビートルズだったから注目されたり価値が見いだされるのかもしれない。試行錯誤さえ評価されるものが世の中にはあるのだ。フィッツジェラルドはグレートギャツビーの前に短編を書いている。挿入しようと思ったがうまく行かず結局は独立した作品になってしまった。しかし、それでさえ過程となり価値が生まれてくるのだ。

 そう考えてくると、完成品、最終作品でさえ過程のような気もしてくる。その人の次の作品に繋がることは間違いないし、たまたま生命がそこで途切れただけかもしれない。恋の終わり際の言葉は、その相手にではなくて次の相手に向けられていくように、少しの語られなかったものは次にいかされていくのだ。とるに足りない、社会では認知されない作家が毎日書いている作品や日記はその過程とも言われないかもしれない。大作もないし完成系もないから。だから、常に最善の作品を生み出し続けること。それによっていつかそれは過程であったと誰かに認められていくかもしれない。