Carpe Diem

Think good thought.

型を学ぶ

 

 ものごとには時差があって学んだとしてもすぐに効果が現れるものは少ない。もちろんそういう種類のものがあるし、その場合はすぐに成果が出ないと失敗になってしまう。基本的に、計画や目標を持っていたとしてもその効果を決められた時期にすべて出し切るのは簡単ではない。結果が分かりやすいものも、わかりにくいものも同じくらいある。そして学ぶ過程で自信がなくて、何を学んでいるのかすらはっきりさせらないこともある。そんな状況で結果を厳しく求めるのは苦であるかもしれないし無意味かもしれない。

 ある程度夢中になって、熱が冷めた時にものごとの価値がわかったり意味をうまく理解できたりすることがある。やはり時間が必要だ。そしてそれに加えて熱中や没頭、集中と言われるものが必要になると思う。これはどんなものごとにも当てはまる話し。誰もが体験しているものだと思う。とても個人的なものだけど、自分だけでは容易にできるものではない。そこを周囲や社会とバランスをとってやっていくしかないところが難しいのかもしれない。

 子どもの頃は、若いうちは、そして初めての場合は特に自分でやっていくというよりは与えられたものを処理していくイメージがある。それは望むが望むまいが社会のシステムの一つのように機能している。大人になると熱中や集中という言葉はより能動的なものになるのではないか。仕事をしていたり過程を持っていたり、あるいは一人でひっそり生きていたとしても自分であらゆるものを選択しているしせざるを得ない。外からの介入に身を任せていてはたちまちやられてしまう。いちいち周りの流れや社会の流行に合わせている必要もないし、それよりも余裕が無くなってくると言った方が正しいのかもしれない。だから彼らは、自分たちで何かある種のものを選択してくのだ。仕事、過程、資格、趣味かもしれないしギャンブルかもしれない。ある段階まで子どもはそのようなことは出来ない気がする。ある程度社会の流れにそってと言うか与えられた環境から徐々に自分のものを見つけていくのではないか。

 そこで型から学ぶという話。誰もが最初は何かをモデルにして、そこから自分なりのやり方というものを徐々に作り上げていく。そしてそれはやはり若いうちに起こるものである。それが出来るからずっと若いという訳ではなくてどちらかと言うと一度通り過ぎたらもう元に戻ることは出来ないものだろう。型にはめて学んでいくと言うか、最初は型自体をじっくり学んでいく。そのためにはモデルが必要になる。ジャンルと言うか、モチーフと言うか、具体的な対象がそこには必要となってくる。それらを通して自分なりのやり方を発見し、その対象や種類がある種の傾向として個人個人にその後備わっていくのだと思う。そしてその最初の対象に触れて型を学んでいる人を見る時にそれは美しくもあり、情熱的でもあり、とても怖いと思えることがある。特に最初は与えられたものが対象であったりする気がするからだ。最初から自分で手に入れたり判断する人もいるかもしれないが少ないだろう。つまり、最初は一般と同じようなものになりがちだと言うこと。それがある人にとっては昆虫であるかもしれない。人気な漫画やアニメのキャラクターかもしれない。学校の先生がモデルになるかもしれないし、家族かもしれない。アイドルなどはとてもその対象になりやすいし音楽や読書は身近だろう。

 もともと人の好みにどうこう言ってもしょうがないし尊重されるべきだ。しかし最初のものは特に多めに見る必要がある。なぜなら最初はその対象ではなく型自体を学んでいるからだ。アイドルならばそれぞれがどういう特徴を持っていて全体の中でどういう役割を果たしているのか。先生たちは何を考え何を伝えようとしているのか。読書や音楽なら同じような作品はないのか、そのようにしてつくられているのか。それらをどのようにして知るかを学んでいくのだ。その型の知り方が重要。そうやって興味を持ったものに接近していくのか。熱中する、集中するというのはどういうことなのか。その後のあらゆる物語のアプローチに決定的な影響を与える。しかしながら、最初の対象自体はそれほど重要ではないかもしれない。それは変化していくものだし、その型を知ってからは自分が好きなもの、興味があるものにそれを対応させて後は能動的に自分で知識や世界を拡大させていくと思うから。

 最初からカラマーゾフの兄弟を読もうと思う子どもなどいないと思うし、最初の対象を死ぬまで大切にする人も少ないと思う。自分が最初の頃どんなものを対象としてどんな型を学んだか振り返ってみるのは有益なことかもしれない。少なくとも今との関連は見つかるだろうし暇つぶしにはなる。なんで今自分が外国人作家の本に熱中しているのか。どういった経緯でここまで広がってきたのか、作者の人生を調べる、交流を調べるなどいろんな経緯があったのかもしれない。日常のあらゆる行いの中に自分の型は見つけられるだろう。