Carpe Diem

Think good thought.

待つこと

 

 真実の愛があるとしたら、真実ではない愛はあるのか。そんな話。僕は待ち続けているのかもしれない。ずっと状況を変えようと積極的に動いたり何かを起こそうとしていた。あるいは、少なくともそうしたいと祈っていたし行動するつもりでいた。けど実際、ただ僕は、その機会が来るのを待ち続けていただけなのかもしれない。

 無力な訳ではない。何もしていないということはない。けど振り返ってみたときに、自分はただ待っていただけではないかと思うときがある。そう気づいたときには悲しみが訪れるかも知れない。あるいは安堵感、納得、不満、無力さを痛感するかもしれない。とにかく心は動かされる。

 よく小説であるように、恋愛の話しであるように。彼女は絶対に僕のことを必要としていると信じていた。けれども実は、僕が彼女を必要としていただけだった。それは明らかだった。というようなものに近い。何事も両面があると言うか、一筋縄には行かない。何かを変えようとして行動することは主体的であり能動的であり力強いものであるかもしれない。しかしながら、それは結局自分にはどうしようもないことを流れの中に任せていることとも言えるかもしれない。人事を尽くして天命を待つとも少し異なる。けど、積極的に進んでいるようで、もとの場所に気づけば戻っていたり、自分で手に入れようとしたものは離れていき望まないものばかり近寄ってくるようにどうしようもないようなこと、考えていることと逆のことはいくらだって起こりうる。

 いろんなスタイルで、いろんなプロセスを経ながら、人はあらゆるものを待っているのではないかと思う。それが生きるということであり、ほとんど待つことしか出来ないのかも、いや、待つことがすべてなのかもしれない。

 どうしようもないと諦めている訳ではなくて。タイミングが面白いなとも思うがどうしようもなさに厭きれることも。救われることが多いと思うがそのときには悲しみが同時に襲ってくることが多い。

 どんな時にそういう気持ちになるか。文学や音楽でそう感じる事が多かった。もしくは人との関係で。けどなんにせよ、言葉の力が一番強かったと思う。それは今でも。自分が作り出す言葉は実際どれほどあるのだろうか。ほとんどが人から借りてきたものではないのか。そんな子どもみたいな当たり前な悩みはもうないけれど、自分の表現には限界がある。それは事実であって喜ぶ対象でも悲しむ対象でもない。いろんな作品を目にしてきて、自分のことをぴったりと表現してくれるものに出会うのは珍しくないのではないか。ずっと言いたいけど言えなかったこと。何となくわかっていたけど文章にも出来ないし、他人以前に自分にすらうまく言い聞かせることが出来ないこと。それでいてその人の言葉を読んだり聞いたりすると、何もかもが納得いく形で安心と希望、もしくは救いがえられると言ったようなもの。それは若いうちに良く体験する人間関係のことかもしれない。仕事での失敗についてかもしれないし愛する人を失った悲しみかもしれない。世界で自分しか考えていないだろうと思ったことがそっくりそのまま文章になっているのを発見した時になんかは本当に驚く。もちろん、偶然かもしれないしその文章を読んだ後で自分の考えが修正されたのかもしれないが、そう思えるだけの言葉に出会う体験はあるはずだ。それは面白いことだと思う。そして、その言葉は生き方や考え方に大きく影響を与えると思う。

 そしてそこには、ある種の傾向と呼ばれるものがあると思う。それは言葉遣いかもしれないし文化かもしれないしその人にしかわからないものの場合が多いかもしれない。音楽と主にないと意味をなさないかもしれないし、自国語で表現するには不十分なものもあろう。しかしながら、外国語で書いてあるにも関わらず(関わらずと言った接続詞は不適格であるかもしれない)自分の考えが表されていることもある。

 近々、ある一つのことに悩みがあった。何とも言えないようなこと。その答えをずっとずっと探し続けたら小説の一節に自分のことを的確に表しているような文章を見つけた。それ以来何かがうまく行きだした。心の重荷が取れたし、自分のことを他人に聞かせられるようになり過去と対面するだけの気力もでてきた。そのようなことがあると思う。

 また、何となく音楽を聴いて、(それは初めて耳にするものかもしれないし何百回も聞いてきたものかもしれない)ある時ふと、これは自分の人生を表しているじゃないかと思ったりもする。それは一曲かもしれないし、同じアーティストのいくつかの曲の組み合わせかもしれない。

 個人的な体験で言うと、The BeatlesのReal Loveを久々に聞いていた時に胸が痛くなるような希望が持てるような、そして自分は最近力強く取り組んで行きてきたような気がしたが実は待っていただけじゃないのかとも思ったりした。

 そしてこれまでに学んだことはHere there and EverywhereであったりIn My Lifeであったりする。自分ではうまく表現できないけど世界のどこかですでに表現されているもの、そんなものと出会うために生きているのかもしれない。そういう普遍的で誰とも共有できる体験や感動が人生にはあるし、あなたも私も体験している。