Carpe Diem

Think good thought.

続、書くこと

社会人になってから書くことの重要性を認識した。自分の文章力説得力のなさを感じる。自分の考えをうまく言葉で、文章で伝えることが出来ない。ということを最近よく聞く。けど、そのことはしっかり伝わっているし、それがあなたの文章力だということも理解できるから、そのこと自体はしっかり伝わっているのではないか。書くことは今の社会でも大切なことだと捉えられているように人との会話の中では感じる。これまでの付き合いでお互いの文章を見せあったことはほとんどないとしても。

 会話と違って文章はより一方的だと思う。作り出す人、書く人の数の差が大きく異なる。会話ならスピーチやプレゼンテーションと少し異なるのでやはり少人数で行われる。基本的にそれぞれに与えられる機会も均等だし、向き合う人の数もほぼ同じと考えていいだろう。でなかったら会話と違う名付け方が適切になるかもしれない。文章において書き手はほとんどの場合少数派となる。一人の作家が書いた文章を世界中の読者が読む。読者は一人かもしれないし、1000万人かもしれない。基本的に、作者が読者より多くなる場合は少ないのではないか。しかしこの場では、作者が一方的にというか作者の意図を持って作者のペースで表現をすることが出来る。

書き終わった作品を読み終わった読者がどうこう言うことはあるが、つくっている最中は完全に作者が決定権を持っており、何らかの作品や表現が完成した状態で世に出る。それをもちろん、読者も自分のペースで読むことは出来るのだが、出来上がった作品にどうこうはいえない。歴史的情報や知識、事実に対して何か訂正を求めたりすることは可能であるが、それ以外はやはり完結している。そこで語られるのは、その完成した作品に対して自分がどう感じたか、何を学んだか、そして何を話したいかである。

 作者は常に少数派だ。読者は常にマジョリティである。ほとんどの場合において。だからではないかもしれないが、文章を書くときにその表現が誰かを傷つけないか考えなければいけないとある作家は言っていた。

 まずは、書いてみて、それを誰かが読んでみることではないか。

ある作家は一ヶ月に7万語の文章を書き、死ぬ前には15万語書いていた。一日どれほどの文章を書けばそれにたどり着くことが出来るだろうか。文章があなたにとって大切なものなら、あなたはいつか、書き出さずにはいられないだろう。そのときにまた、わかったことを書けば良い。