Carpe Diem

Think good thought.

世界一周から見る目的

 

 なぜ世界一周をするのか。その目標が、「世界一周をすること」である場合は少なくない。それが終わった後に、世界一周が出来たと言えばいいだけだ。それもそれで面白いかもしれない。完全に結果に目を向けたものである。良くいわれるように、世界一周をしている人でつまらない人は多い。あまりにも目的を持っていないから。結果しか気にしていない。傾向として、聞いた話ではあるがこういう人が多いらしい。とにかく話が面白くない、職業や生き方に関して特にこだわりや誇りを持っていない。英語をはじめとして現地の言葉を十分に学んでいない。その必要性自体に気づいていないしその場でも何とかなったと思っている。歴史、政治、経済に関心がない。そして話がつまらない。これはあながち間違っていないと思う。妙に納得したと言うか否定できなかった。それでいて、と言っては不公平かもしれないが根拠のない自身やねじが緩んでいるのではないかと思う程の突飛さがある。そして本人はそのことについて楽しそうに話すが、周りにはそれほど楽しさが伝わらない。

 世界一周が終わる。そして、そこに何が残るのか。「世界一周をした」ということだけかもしれない。費やされた時間とお金、その他諸々は決して帰ってこない。「世界一周をした」と楽しそうに自信を持って話すことにどれほどの面白みがあるだろうか。自分にとって、そしてその話を聞くモノたちにとって。自分にとって当初目的としていたくらいの結果や成果、得るものはあったのか。

 目的や関心を持つことは意外と簡単ではない。それらがあることで仮定を楽しむことが出来て結果的に得るものが多いのではないか。というかむしろ、それがなければどこに向かっているのかさえわからない。必要なはずのものに気づかないのは悲劇だ。どれだけのものを得られたのか楽しそうに話したって自分でも気づいていないことは山ほどある。そのときに自分が、どれだけのものを失っていたか気づいていないからだ(あるいは、必要性に気づかないことは幸せであるのかもしれない)。結果だけおもしろおかしく話すことなんて出来ない。その途中で起こったこと、どんなことに関心を払いその途中何を得てきたか、そして失っていることにも気づきつつ納得して過ごした時間からは自然と話も生まれてくる。「世界一周した」と言いたいからするのもいいかもしれない。けど、その気持ちだけで出来るのも凄いことだし他の人には出来ないことかもしれない。