Carpe Diem

Think good thought.

考え方

 

 考え方についての話。いろんな種類の捉え方、モノの見方が存在する。

 「教育とは、教育を受けていないものに対して教育を受けたものが良いと思って教え、実行させるものである」。それはそうかもしれない。常に教育を受けた人の方が優れた、有益な、他者の役に立つ知識を持っていると捉えがちである。または、そう捉えられるようなものを教育、教育の内容としているのかもしれない。

 事実がそうだからそうなっているものもあれば、そう捉えたいのでそのものをそのように名付けたりしていることも多い。

 エボラが流行している。様々な問題が生じる。西欧人、欧米人の仕業だ。神の仕業だ。これは仕方がない。伝統的な埋葬をしたい(しかしそれだと感染が広がることは避けられない)。我々を助けると言いつつ家族を隔離していく、そして家族は生きて帰って来ない。空気では感染しない。そもそも伝染病なんて存在するのか。なぜこんなに多くの外国人が変な白い服を来て自分の待ちにきているのか。

 そしてある国の少年は、自分の人生のすべてをかけると言っていた。その少年は埋葬をする作業に志願して参加し行動している。自分がもし志願しなかったら誰がやるのかと彼は真剣に語っていた。感染や死に至るリスクを彼なりに理解した上で責任を持って人生を必死に生きていた。それを見て回りの人はお金のためだ、西洋人の真似をしている、あいつも病気になって死ぬ。いろんな見方がある。

 もし、教育が、“先進国”の人たちが持っている“知識”といわれるものがそのアフリカの国のすべてに備わっているとしたら、感染は押さえられ、死者は減少し、人々はさらに協力することが容易になっていくのだろうか。

 非難されるべきは誰なのか。そもそも非難している場合ではないだろう。病気について知識がない人が悪いのか。生死に関わる状況で伝統的な埋葬や文化にこだわっている場合ではないというのか。その最後の別れが、その人たちにとって生きている中で最も大切なものだとしたら、その機会は奪われるべきものなのか。誰が、誰のために、何のために死んでいくのか。病気がなくあることが最大の目標であり到達点なのか。病気を作り出すように頼んだ人はいないかもしれないが、それを止めてくれと思っている人は意外と少ないのかもしれない。無くなるのが自然と捉える人もいるのかもしれない。何が正しいのか、誰のために何をするべきなのかは簡単にはわからない。